安心論題/信心正因
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(7)信心正因
一
阿弥陀仏の本願のお救いに任せる一つで、迷いを離れて悟りの世界に入らせていただく。これが
一つは、他の法に対して、本願の法の至易最勝[1]なることをあらわす。二つには、第十八願の上で、乃至十念の称名に対して、
まず、他の法に対して本願の法の至易最勝なることをあらあわすというのは、およそ仏法においては
それゆえ、聖道の諸教にあっては、悪業をつつしみ善業を積んで、仏道の修行に励みます。けれども、現実には人間が仏果を得るような修行は完成することは不可能です。
そこで、阿弥陀仏の願力の助けをかりて、自己の積むさまざまな善根を因として浄土の往生を願います。これが第十九願の
しかし、更に自己の積む善根の力及ばないことを知らされ、
このように、聖道自力の法はもとよりのこと、往生浄土門の中にあっても、第十九願や第二十願の法においては、自己の修する行業を励み、これを因として往生を願い求めるものであります。
これに対して、第十八願の法は、自己の行業を往生の因とするのではなく、如来の成就せられた名号願力を持って往生の業因とします。人間の修める行業と如来の成就の業因とを比べるならば、まったく比較になりません。また果の方も方便両願(第十九・第二十の両願)は化土にとどまるのに対し、第十八願の果は真実報土の往生であって、弥陀同体の仏果を開かせていただくのであります。
信心正因ということは、このように如来成就の法を聞信させていただく一つで、名号の全徳を具して成仏の因が決定するのですから、他の法に比べて最も勝れ、この上なく易い法である旨が明らかとなります。
次に、第十八願の上で、乃至十念の称名に対して、唯信独達の宗義をあらわすというのは、第十八願にあっては、信心も称名も如来の名号をいただいたすがたでありますが、称名するというわたくしの行業によって往生が決定するのではなく、名号を信受することによって往生の因が決定します。乃至十念の称名は信相続の行業であって、正因ではなく、信心こそ往生即成仏の証果を得る正当の因である、という義をあらわします。
今は主として、第十八願の上で、称名との関係において「
二
信心正因の義は、ひろく『教行信証』の信巻全体にわたって示されていますが、殊に三心一心の問答(*)(真聖全二―五九~七三)に詳しく解明されています。信心正因という言葉は、『正像末和讃』の中に(真聖全二―五二一)、
- 不思議の仏智を信ずるを
- 報土の因としたまへり
- 信心の正因うることは
- かたきがなかになほかたし (*)
と出ています。その他、信巻の初めに示されている十二嘆釈の中には(真聖全二―四八)、
- 大信心は……証大涅槃の真因、 (*)
同じく信巻の三心一心の問答の初めには(真聖全二―五九)、
- 涅槃の真因は唯信心をもってす。 (*)
同じく信楽釈には(真聖全二―六二)、
- この心はすなわち如来の大悲心なるが故に、必ず報土の正定の因となる。 (*)
同じく本願成就文の一念の解釈に(真聖全二―七二)、
- 一心はすなわち清浄報土の真因なり。 (*)
等とあります。これらはいずれも信心正因の義を示す文であります。
三
「信心」とは、すでに(2)「三心一心」の論題でうかがった通り、総じては本願の「至心・信楽・欲生」の三心のことですが、別しては三心即一の信楽を指します。これを本願成就文には「信心歓喜」と説かれています。名号のおいわれを聞いて信じ喜ぶこと、仏願力に
「正因」とは、正当の因ということで、信楽一心が仏果を得べき正当の因であるという意味であります。これを逆にいえば、信心以外は正当の因でないということであります。
ここで、宗学の上でいう
「正因」というのは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわします。衆生を往生成仏せしめる業因たる名号はすでに成就されているけれども、これを信受しなければわたくしの往生は決定しません。名号を信受することによって、わたくしどもの上に往生成仏の果を得べき因が決定するのです。これが信心正因であります。
船に乗ることによって向う岸に渡り、薬をのむことによって病が治ります。この場合、船と薬とは名号業因にたとえられ、「乗る」と「のむ」とは信心正因にたとえられます。もっとも、このたとえでは「乗る」「のむ」はわたくしの行いであって、船や薬のはたらきとは別でありますが、ご法義の上では、衆生に信受させることは名号願力のはたらきであります。
四
なぜ信心が正因になるのかという理由をうかがいますと、阿弥陀仏がすでに衆生の往生成仏すべき願と行、智慧と慈悲、自利利他の徳をまどかに成就せられ、これを名号としてわたくしどもに与えてくださっているから、これをいただく信心一つで、往生成仏の果を得べき因徳が、わたくしの上にそなわるのであります。つまり、本願成就の名号が往生成仏の業因であるから、これを信受するのみで仏となるべき身に定まるのであります。
五
第十八願の文には、信心と称名とが誓われています。そして、善導・法然の両師のごときは、念仏往生とか念仏為本といわれ、宗祖聖人もそれを
第十八願は、名号を信じさせ称えさせて、真実報土に往生させようという誓いであります。如来の名号がわたくしの心に届いたのが信心であり、それが声に顕われるのが乃至十念の称名で、信心も称名も共に名号をいただいたすがたにほかなりません。それゆえ、他の諸行の法に対しては、他力の念仏をもって本願の法を示されます。念仏往生・念仏為本というのは、この意味であります。
しかし、信心で往生決定か、称名で往生決定か、を論ずる場合には、信心で往生が決定するのであって、称名するというわたくしの行業によって往生が決定するのではないといわねばなりません。なぜなれば、名号をわたくしの心に領受したとき、往生の因は決定するからであります。
これを第十八願の文の上でうかがいますと、称名については「乃至十念」と誓われています。これは上は一生涯の千声万声といった多念の念仏から、下はわずか十声までということで、「乃至」の語は称名の数の多い少ないを問わないことをあらわします。称名の数の多い少ないを問わないということは、称名の功を認めないということであります。もし称名の功を認めるのであれば、少ないよりは多い方が功徳が多いことになるからです。
称名の功を認めないということは、一声も称えることができなくても往生を得ることに差し支えはないという意味です。『観経』の下品中生(*)(真聖全一―六四)には、法を聞いて一声の称名をするいとまもなく命終して往生する旨が説かれています。
このように、第十八願の文にあっては、十念の称名に「乃至」の語を置かれていることによって、称名するという行業が、往生の因の決定に関与するものでないことが知られるのであります。[2]
六
更に第十八願の成就文には(真聖全一―二四)、
と説かれています。宗祖聖人のおん釈によれば、この「一念」は信心のおこった最初のときであり、「乃至」は一生涯の信相続をあらわします。ゆえに右の成就文は、名号のおいわれを聞いて信じ喜ぶ(聞其名号信心歓喜)、その信心は一生涯相続するが(乃至)、その信心のおこったとき(一念)、直ちに浄土に往生すべき身に定まり正定聚不退の位に住する(即得往生住不退転)、という意味であります。
ここでは称名は、「乃至」といわれる信相続の中に含まれて、往生の因が決定した後の行業とされ、浄土に往生すべき身に定まるのは、信心のおこった最初のときであるとされています。
これによって、信心が正因であって、称名は正因でないという義が明らかに知られます。それでは称名は無意味な行業かというと、決してそうではありません。そのことは(15)「十念誓意」や(22)「称名報恩」などでうかがいます。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p86~
脚注
- ↑ 至易最勝(しい-さいしょう)。至りて容易な称名行に最勝の徳をこめて選びとられたのが大悲選択の本願であるということ。法然聖人は、阿弥陀仏が称名念仏(なんまんだぶ)を往生の行として選択された理由を『選択本願念仏集』「本願章」で「難易義」(選択集 P.1208)と「勝劣義」(選択集 P.1207) として示されておられた。
- ↑ 『一念多念証文』には「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」と「きくひと」 (一多 P.694)とあり、一声の称名もない聞名往生について述されていた。しかし、御開山は乃至十念を一多包容の言ともされているので、称名の有無不定とまで決めてしまうのは誤解を生みやすいかもである。有無不定の語では一多包容や乃至という概念を包摂できないからである。