乃至十念
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ないし-じゅうねん
十念は十声の念仏の意。上は生涯の多念から下はわずか十声・一声などに至るまで、称名の数量を限定しないことをいう。 →十念。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(大経 P.18)
と乃至十念の称名が誓われいる。
法然聖人は、阿弥陀仏がこの念仏一行を選択された意を『選択集』で、
- しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
- もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
- まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集 P.1209)
といわれ、易往易行の念仏一行を本願に選択されたのは、衆生を平等に救おうという平等の大悲ゆえであるといわれていた。 →難易の義
御開山は『一念多念証文』で、
と乃至十念の乃至を「大慈大悲のきはまりなき」といわれていた。 『尊号真像銘文』では、
- 「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号 P.644)
とされ、阿弥陀仏の「大慈大悲のきはまりなきこと」を示す言葉が「乃至十念」の意であり「如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらは」す語(ことば)であるといわれていた。(尊号 P.644)
近代教学や現代教学では、西欧のキリスト教の影響で御開山の「信」を自覚としての「信心」を強調し「名体不二」である〔なんまんだぶ〕を称えて仏に成る「念仏成仏」の法義を等閑にしてきた傾向があった。これは越前の田舎の無知な老婆が〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超えると領解してきた御開山の示された易往易行のご法義に、近代の「自覚」という信の概念を導入し強調しすぎた弊害でもあった。
『御消息』で、
という「選択本願」の〔なんまんだぶ〕を称えて浄土に往生し仏陀と成る教義を、覚如上人の提唱された「信心正因 称名報恩」の教説(ドグマ)に幻惑されて、御開山の示された「念仏成仏」の真意を正しく伝えない真宗の坊さんは近代の「智愚の毒」に侵されているのであろう。もちろん「信心正因」は御開山のお示しであるが、その信心の対象である名体不二の教法である「名号」を行者の心もちである称名報恩だけに限定することは、
- 「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。 (尊号 P.665)
と、「正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」と示された御開山の言葉にも反することになるであろう。浄土真宗の信心の本体は「名体不二」の名号(なんまんだぶ)であったからである。御開山が信巻で「至心信楽の願」の信心を、
- この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。(信巻 P.211)
と、信心を示す第十八願を「この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり (斯心 即是 出於念仏往生之願)」とされた所以である。