安心論題/必具名号
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(20)必具名号
一
本願には「名号を信じさせ称えさせて往生させよう」と信心と称名とをならべてお誓いくだされ、本願成就文には「信一念に往生は決定する」と唯信正因の旨が説かれています。
したがって、一声の称名をも待つことなく、名号を信受すると同時に往生成仏の因は決定しますが、その信心は本願の誓いのとおり、必ず称名行として一生涯相続します。もし称名として相続しないような信心であれば、そのような信心は本願真実の信心ではありません。これを宗祖親鸞聖人は「真実の信心は必ず名号を具す」(真聖全二―六八)と仰せられています。
ところが右の文の意味を誤って、信一念同時に行一念の称名があるのだ、と信称同時を主張する者があります。右の文は、はたして信称同時説の根拠となるでしょうか。宗祖が「必ず名号を具す」と仰せられた意味をたずねて、信称同時説の誤りを明らかにするのが、この必具名号という論題の趣旨であります。
二
『教行信証』の信巻の中に、三心即一心、一心正因の義をあらわされていますが、その三心即一心の義を結ばれるところに(真聖全二―六八)、
- 真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。
- (真実信心必具名号 名号必不具願力信心也。)[1]
と示されています。これがこの論題の出拠であります。
右の文を覚如上人が『本願鈔』に解釈されて(真聖全三―五六)、
- 「真実の信心にはかならず名号を具す」というは、本願のおこりを善知識のくちよりききうるとき、弥陀の心光に摂取せられたてまつりぬれば、摂取のちからにて名号おのずからとなえられるるなり。これをすなわち仏恩報謝のつとめなり。
- 「名号必不具願力信心也」というは、名号をとなえて、この名号の功力をもって浄土に往生せんとおもうは、名号をもってわが善根とおもい、名号をもってわがつくる功徳とたのむゆえに、如来の他力をあおがざるとがによりて、まことの報土にうまれざれば、「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」と釈したまえり。
と述べられています。
三
宗祖がここに「必具名号」とか「必不具名号」等といわれる「名号」とは、称名を意味します。もしこの「名号」を如来成就の名号そのもの、いわゆる法体名号と考えますと、この一段の文の意味が通じません。
すなわち、はじめの「真実信心は必ず名号を具す」という文は、如来の名号が私の心に届いたのが真実信心ですから、「真実信心は法体名号を具している」ということで解釈できますが、後の「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」という文は意味が通じないことになります。「必ずしも……具せざるなり」ということは、具するとは限らないということで、願力の信心を具した名号もあれば、願力の信心を具していない名号もあるという意味になります。如来成就の名号そのものに、そのような別はあり得ません。
如来の名号が私どもに受取られたとき、その受け方によって、如実の称名ともなり、不如実の称名ともなるのです。名号のあるがままを信知して称える念仏は「願力の信心を具した称名」であり、名号のいわれを正しく領解しないで称える念仏は「願力の信心を具しない称名」であります。このように、名号そのものに信心の具・不具の別があるのではなく、私どもの上に称名となったところで、真実信心の具・不具の別がいわれるのであります。
なお、宗祖の上で、「名号」という語で称名を意味する用例は、化身土文類の要門釈のところに(真聖全二―一五五)、
- 助とは名号を除いて已外の五種これなり
とあり、同じく要門釈の「五専」を示されるところにも(真聖全二―一五五、坂東本、存蓮本)、
- 四つには専名[2]
とあります。今の「名号」もそれらと同様に「称名」の意味であります。
四
つぎに、必具名号の「必具」というのは、真実信心には必ず称名を具すると仰せられるのです。その具するというのは、前後具足であって、同時具足の意味ではありません。
前後具足というのは、真実信心をえた者は信後相続の上に必ず称名を具するというのです。これは具するといっても、信心獲得が前であり、称名相続は信一念より後の行業であります。
同時具足というのは、信心獲得と同時に称名を具している(信称同時)というのです。
本願の法にあっては、名号が私の心に満入したのが信心であり、それが相続の行業に出てきたのが称名でありますから、信前称後であって、信称同時ではありません。
このように申しますと、現実には信心を得て後に称名するのではない。信前・信後を通じて称名念仏するのだから、信前称後(信心が前で称名が後)というのは現実に合わない空論だと反論されるかもしれません。
たしかに、法を聴聞してお念仏申し、お念仏申しながら聴聞を重ねて、遂に信心獲得の身に育てられるのが、多くの人びとの実際のすがたでありましょう。
しかし、今は本願の法の上で、信心と称名との関係を論じているのですから、信前の称名は本願の「乃至十念」と示された他力の称名ではありません。本願他力の信心と本願他力の称名との関係をいえば、おちる私をお救いくださる如来の願力を信知せしめられたのが他力の信心であり、救われた喜びの上からご恩尊や有難やと仏恩を念報させていただくのが他力の称名ですから、やはり信前称後といわねばなりません。
酒を飲めば、歌が出てまいります。酒を飲むのと歌が出るのと同時であるということはあり得ません。飲むのが前で、出るのが後であります。こういうわけで、必具名号の「必具」とは信後相続の上に必ず称名を伴うという意味であって、信一念同時に称名があるという意味ではありません。
もし、どうしても信一念同時に称名の初一声があると主張するならば、宗義に違することになります。
なぜならば、信一念のときは往生は決定するのでありますが、その信一念同時に私の口業の称名があるというならば、往生決定について、私の称名するという行為が関与することになり、それでは純粋他力の救いでないことになるからであります。こういうわけで、信称同時説は誤りであるといわねばなりません。
五
なぜ真実信心には必ず名号(称名)を具するのかと申しますと、
一つには、本願の誓いに順ずるからであります。本願には三心の信心と乃至十念の称名と、信と称とを並べ誓われています。したがって、この法を受けた者は、本願を信じ、称名相続して、命終われば真実報土に往生せしめらるのです。
もっとも、法に遇って信心歓喜し、一声の称名をするいとまもなく、すぐに命終するというような場合も、信一念に名号の全徳を具有しますから、往生にさわりはありません。けれども今は、本願の誓いの通り、平生のときに法に遇い、信後に命ながらえる通常の機について、真実信心には必ず称名相続があるといわれるのです。
二つには、名号度生(名号をもって衆生を済度する)の法だからであります。およそ「名」は可聞・可称の法であるといわれます。つまり名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるというのです。行巻に引用された元照律師の『阿弥陀経義疏』の文には(真聖全二―二九)、
- わが弥陀は名をもつて物(衆生)を接したまう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳識心に攬入す。
等と示されています「耳に聞き」とは名号を聞信すること、「口に誦する」とは称名念仏することであります。
阿弥陀仏はすべての衆生を救うために名号度生の本願をおこされました。ゆえに本願には「信じさせ称えさせて往生させよう」と誓われたのです。したがって、私が本願を信じお念仏申すままが、如来の名号がお誓いの通り私の上に活現しつつあるすがたであります。
六
宗祖が信巻の中で、三心即一心の義を結ばれるところに、「真実信心必具名号」と仰せられたわけは、本願の三心は信楽一心におさまり、その信楽が相続の上には乃至十念の称名となるのである。つまり、本願の称名は信楽一心の相続相であるとしめすことによって、三心が信楽一心におさまる旨をあらわされたものと考えられます。
いま「必具名号」という論題にあっては、真実信心は必ず称名相続を伴う。称名相続しないような信心は真実信心ではない。信心と称名とは前後具足であって、同時具足ではないという旨を示すのが、主たる所顕であるといえましょう。
『末灯鈔』の有阿弥陀仏宛の宗祖の返信の中に(真聖全二―六七三)、
- 信心ありとも、名号をとなえざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなうとも、信心あさくば往生しがたくそうろう。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなえんずるは、うたがいなき報土の往生にてあるべくそうろうなり。
等と仰せられています。「信心ありとも名号をとなえざらんは詮なく候」というのは、信心があるといっても、称名相続しないような信心は真実信心ではないという意味で、「真実信心必具名号」と同じ意味になりましょう。また「一向名号をとなうとも信心あさくば往生しがたくそうろう」というのは「名号(称名)は必ずしも願力の信心を具せざるなり」の意味に相当すると思われます。
唯信正因だからといって、称名相続を軽視するような信心は、真実信心ではないでありましょう。また、称名念仏が大事だからといって、称えることに功を認めるような称名は、願力の信心を具しない称名でありましょう。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p220~
脚注