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安心論題/仏凡一体

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安心論題の話

はじめに
(1)聞信義相
(2)三心一心
(3)信願交際
(4)歓喜初後
(5)二種深信
(6)信疑決判
(7)信心正因
(8)信一念義
(9)帰命義趣
(10)タノム 
(11)所帰人法
(12)機法一体
(13)仏凡一体
(14)五重義相
(15)十念誓意
(16)六字釈義
(17)正定業義
(18)彼此三業
(19)念仏為本
(20)必具名号
(21)行一念義
(22)称名報恩
(23)即得往生
(24)平生業生
(25)正定滅度
おわりに

(13)仏凡一体


 蓮如上人は『御文章』に、「仏心と凡心と一体になる」、あるいは「仏心と凡心と一つになる」と仰せられています。その意味をうかがうのが、この「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」という論題であります。前にうかがった「機法一体」と今の仏凡一体とは、言葉は類似していますが、蓮如上人の釈義の上では、そのあらわす宗義は別であります。そこで、まず仏凡一体といわれる意味をうかがい、その上で、この論題に関連する問題を考えてみたいと思います。


 『御文章』二帖目第十通(真聖全三―四四〇)に、

さらに一念も本願をうたがうこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって、仏心と凡心と一体になるといえるはこのこころなり。これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。(*)

同じく二帖目第九通(真聖全三―四三八)には、

一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、仏智より他力の信心をあたえたまうがゆえに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。(*)

と仰せられています。
 仏凡一体の「仏」とは仏心で、「如来のよきおんこころ」と示されています。これは阿弥陀如来の真実清浄の心であります。これを仏智、大悲心、不可思義不可称不可説の至徳などといっても同じで、名号の徳であります。
 「凡」とは凡心で、「行者のわろきこころ」と示されています。これは凡夫の煩悩罪濁の心であります。これを妄念、虚妄の心、虚仮(こけ)不実(ふじつ)の心などといっても同じで、私ども迷える者の心であります。
 「一体」というのは、凡心の中に仏心が入ってくだされ、凡心が仏心と一体になるといわれるのです。『蓮如上人御一代記聞書』第六四条に(真聖全三―五四八)、

衆生をしつらいたもう。しつらうというは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くはえそうらいて、よくめされ候。衆生のこころをみなとりかえて、仏智ばかりにて別に御みたて候ことにてはなくそうろう。(*)

と示されています。「しつらう」というのは、取り繕うとか、作為するとかいう意味であります。この文によれば、衆生の煩悩罪濁の悪い心をそのままにしておいて、如来の清浄真実の善い心をお加えくだされて、衆生の悪い心を如来の善い心にしてくださるのです。衆生の悪い心を全部とりのけて、仏智だけで別に見立てるのではない、と仰せられています。衆生の煩悩の心に仏智が入ってくださることによって、衆生の心の全体が仏智に融摂せられる、凡心のありたけが仏心に転ぜられて、仏心と一味になるといわれるのです。それで、この仏凡一体の「一体」は「転成(てんじょう)の一体」といわれます。
 もし、衆生の悪い心の中に如来の善い心が入ってくだされても、それによって衆生の悪い心が如来の善い心に転ぜられるのではなかったならば、衆生が救われたことにはなりません。届いてくださった仏心が私の煩悩の全体を仏心に転成[1]してくださるから、私が浄土に往生して仏とならせていただけるのであります。


 この仏心と凡心と一体になるというのは、信心の体徳[2]を示されたもの、あるいは信心の得益を示されたものとうかがわれます。
 信心の体徳を示されたものというのは、『本典』信巻の至心釈に(真聖全二―六〇)

如来の至心をもって、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心をあらわす。かるがゆゑに疑蓋まじはることなし。(*)
(この如来の成就せられた至心すなわちまことをもって、すべての迷っている煩悩・悪業のよこしまな心の衆生に施してくだされたのである。そこで、衆生の上でいう至心とは、如来より与えられた真実心をあらわすのであるから、その相をいえば疑いのまじわらぬ心のほかはない。)

等と仰せられる意味であります。光が闇の中に入れば闇は光になってしまいます。如来の真実心が衆生の虚妄心の中に届けば虚妄心は真実心に転ぜられます。この如来の真実心が衆生の虚妄心の中に届いたのが、衆生の上でいわれる至心であって、その届いた心相をいえば、わがはからいを離れて如来にうちまかせて喜ぶ(信楽)のほかはありません。いいかえますと、信楽の体徳が衆生の上でいわれる至心であります。前掲の『御文章』二帖目第九通には(真聖全三―四三九)、

仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。(*)

と仰せられています。これは如来の真実心が衆生の虚妄心の中に届いたのが信心獲得の行者であるという意味で、信心の体徳を示されたものとうかがわれます。
 信心の得益を示されたものというのは、『本典』信巻に、本願成就文の「即得往生」の意味を解釈されて(真聖全二―七二)、

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益をう。(*)

として、その中に「転悪成善の益」をあげられています。また行巻の一乗海釈には(真聖全二―三九)、

海というは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときにたとうるなり。(*)

と、信心の得益としての転成が示されてあります。ここでは人間の善も悪も共に転じて、仏智の功徳にかえなすという意味が述べられています。『唯信鈔文意』には(真聖全二―六二三)、

「自」は、おのづからという……行者のはじめてともかくもはからわざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転じかえなすというなり。転ずというは、つみをけしうしなわずして善になすなり、よろずのみず海にいればすなわちしおとなるがごとし。(*)

と述べられています。これによって、罪を消し失わないで、そのまま仏智の善に転成せしめられるという意味が明瞭であります。
 前掲の信巻の至心釈や、『御一代記聞書』では、衆生の煩悩心の中に仏心が入って仏心と一味になるといういい方であり、ここに出した文は川の水(凡心)が海に入って海水(仏心)と一味になるといういい方でありますが、仏力によって衆生の煩悩罪濁の心が仏心に転成せしめられるという意味は全く同一であります。
 なお、『御文章』二帖目第十通に(真聖全二―四四〇)「仏心と凡心と一体になるといえるはこの心なり」(*)とあるのは、存覚師の『浄土真要鈔』に(真聖全三―一三〇)、

一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまったくひとつになるなり。(*)

等とあるのを承け、更には『安心決定鈔』を承けたものと思われます。


 仏凡一体というのは、衆生の心にいただかれた法の徳(法徳)としていわれるのであって、衆生の現実のすがた(機相)の上でいわれるのではありません。
 もし機相の上で凡心が仏心に転成するのであれば、獲信と同時にこの世で仏になるという一益法門(いちやくほうもん)になってしまいます。それは大まちがいです。前掲の『御一代記聞書』には、「衆生のこころをそのままおきて」等と示され、宗祖聖人の『唯信鈔文意』には、「つみをけしうしなわずして」等と仰せられています。宗祖はまた『一念多念文意』に(真聖全二―六一八)、

凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかりはらだち、そねみねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。(*)

と仰せられています。信をえても臨終の一念まで煩悩は消えません。
 それなら仏凡一体は死後のことかというと、決してそうではありません。獲信のとき仏凡一体になるのです。平生聞信のとき仏凡一体になるのでなければ、命終わって私が往生成仏の果を得る筈がありません。仏凡一体はいただいた法の徳からいわれるのです。
 なぜ仏凡一体になっているのに直ちに仏とならないのかと申しますと、名号は私の往生成仏の因徳として宿るものだからであります。信巻の字訓釈には、至心のことを「真実誠種の心」(*)(真聖全二―五九)と解釈されています。「真実誠」とは仏智のことであり、「種」とは私どもが仏果を開かせていただく因種(たね)となるという意味であります。
 信心をうれば、もはや仏となるべき因種は私の上にそなわりますが、機相は依然として煩悩具足の凡夫であることに変わりはありません。煩悩具足の凡夫であるけれども、法の徳として仏果を得べき身になっている。それが仏凡一体ということであります。
 たとえば適切でないかもしれませんが、写真をとるのにシャッターをおせば、フィルムは感光します。感光はしても、フィルムは依然として黒いままで画像はあらわれません。しかしこれを現像液につけますと画像はあらわれます。フィルムは光を受けた時点で、画像としてあらわれるべきフィルムになっているのです。
 このように申しますと、あらわには仏とならないけれども、ひそかには仏になっている(滅度密得)といえる、と考えられるかもしれません。しかし、いかなる意味でも仏果を得ているという受け取りかたは誤りであります。存覚師の『浄土真要鈔』は(真聖全三―一二四)、

三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。(*)

と示され、『蓮如上人御一代記聞書』第三五条には(真聖全三―五四一)、

一念の信力にて往生さだまるときは、罪はさわりともならず、されば無き分なり、命の娑婆にあらんかぎりは罪はつきざるなり。(*)

と仰せられています。煩悩具足のままで仏凡一体にならせていただくということは、まことに有難く尊いことと味わわれます。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p148~



脚注

  1. 転成とは方向を転じて変え成すことをいう。小乗仏教では煩悩は滅すべきものであるが、大乗仏教に至って煩悩の持つエネルギーを自利利他の仏果へ転ずるものとした。『維摩経』で、静寂な林間で座禅し瞑想し悟りを目指す舎利弗を維摩居士が「不断煩悩而入涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃に入る)」と、煩悩の中にあって涅槃を求めるべきであると呵責したごとくである。なお御開山が、不断煩悩得涅槃といわれるのは『論註』をうけて煩悩を持ったままで阿弥陀如来より賜る信心の徳によって涅槃を得る意とされた。
  2. 信心の体徳。阿弥陀如来より回向された、賜りたる信心の持つ徳。賜った信であるから徳という。