安心論題/称名報恩
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(22)称名報恩
一
本願には信心と称名とが誓われています。これは阿弥陀仏の名号を信じさせ、称えさせて、浄土に往生させようという誓いであります。その名号を信じ称えて往生というところから念仏往生といわれます。
しかしながら、名号を信受したところで往生が決定するのか、それとも名号を口に称えることによってはじめて往生が決定するのかといえば、名号を信受したところで往生は決定するのです(信心正因)。そうしますと、その後の称名は往生決定の上の行業であって、お救いくださる仏恩に感謝する思いから称えるのであります(称名報恩)。もし自分の称える念仏の行によって往生しようと願い求めるのであれば、それは自力の念仏であって、第十八願他力真実の念仏ではないといわねばなりません。
二
宗祖親鸞聖人の上では、『正信偈』の龍樹章に(真聖全二―四四)、
- 弥陀仏の本願を憶念すれば 自然に即のとき必定に入る
- 唯よく常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべし (*)
とあるのが称名報恩の出拠であります。そのほか化巻には(真聖全二―一六六)、
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(*)
と仰せられています。なお、唯円房の『歎異抄』第十四章にも(真聖全二―七八五)、
- この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもうべきなり。 (*)
と述べられています。覚如上人は宗祖の意を承けて、称名報恩の義をいっそう明確に示されます。『最要鈔』には(真聖全三―五二)、
- 信心歓喜乃至一念のとき、即得往生の義治定ののちの称名は、仏恩報謝のためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。「応報大悲弘誓恩」(正信偈)と釈したまえるにてこころうべし。(*)
と述べられ、『口伝鈔』(真聖全三―三三、三四)などにも信因称報(信心正因、称名報恩)の旨を示されています。蓮如上人にいたっては、『御文章』の全般にわたって専ら信因称報を説かれ、『御一代記聞書』(第一五条、第一七九条)にもその旨が示されています。
三
称名報恩の「称名」とは本願の「乃至十念」であって、他力の信をいただいた上の一生涯の称名を指します。未信の称名や第十九願・第二十願の自力念仏には報恩の義はありません。「報恩」とは報謝仏恩の義で、第十八願の念仏は、私をお救いくださる大悲の仏恩を喜び、報恩感謝の思いから称えるというのであります。
およそ本願にあっては、「若不生者」(必ず往生させる)の果に対して、「至心信楽欲生」の三心と「乃至十念」の称名とを因として示されています。したがって、真宗相承の七高僧も、称名念仏をもって往生浄土の業因と示され、宗祖聖人も『教行信証』の行巻に「乃至十念」の称名を出されて、真実報土の往生を得させてくださる業因力用と示されています。このように称名念仏をもって往生の業因と示されるのは、称名となって私の上にあらわれているところで、名号の力用をお示しくださるのであります。
いま信心正因に対して称名報恩というのは、お念仏をする行者の用心を示すのであります。第十八願の称名は、信受した如来の名号がそのまま行者の口に出てきたものですから、往生成仏の証果を得しめる力用を具しています。けれども、称えてはじめて具するのではなくして、名号を信受した一念のときに具します。したがって、「乃至十念」の称名は、往生のためと思うて称えるのではなくて、ご恩尊や有難やと仏恩を念報する思いから称えさせていただくのであります。
これを経文の上で窺いますと、本願の文には「十念」の称名に「乃至」という語がつけられています。この「乃至」というのは、上は多念の称名から、下はわずか十声の者までということで、称名の数の多い少ないは問わないこと(多少不定)を示す言葉です。称名の多い少ないを問わないということは、称えるという私の行いに少しも功を見ないということであります。称えるという私の行いに功を見ないということは、本願を信受してから一声の念仏も称えないで命終わっても、往生はまちがいないといういうことであります。勿論、真実信心は相続の上に必ず称名をともないますが、その称名に「乃至」の語がつけられているのは、称名の多少不定を示すものであり、更にその意を推し進めますと、称名の有無不定を意味するということになりましょう。そのような不定を示す語が称名につけられているということによって、信心こそ正因であって、称名は往因決定の上の信相続の行業であると知られます。
また本願成就文には、聞其名号信心歓喜の一念に即得往生の益を得ると説かれています。この「一念」とは信心開発の最初の時であり、「即得往生住不退転」とは直ちに正定聚不退(仏となるべき身に定まる)の益を得ることであります。これは受法と得益とが同時であるということで、信益同時といわれます。この信心がその後の生活の上に称名念仏となって相続しますので、その称名は往因決定後の行業であって、往因決定に関与するものではありません。
このように、本願の文にあっては、称名に「乃至」という不定を示す語が付されてあり、成就の文にあっては、信益同時の義が示されてあります。これによって、信心一つが正因であって、称名は往因決定の上の信相続の行業であると知られます。すでに往因決定の上の称名であれば、どうかお助けくださいと往生のために称えるのではなく、お蔭様でと報恩謝徳の思いから称えさせていただく念仏であるというのであります。
四
七祖の上で見ますと、龍樹菩薩の『易行品』弥陀章の長行(散文)のところに(真聖全一―二五九)、
- 阿弥陀仏の本願、かくのごとし。「もし人われを念じ(信心)名を称して(称名)自ら帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提をう」。(*)
と述べられています。これは本願の意をあらわされたもので、信心と称名とを出して、必定(不退の位)に入るという益を示されます。ところが偈頌(うた)のところには(真聖全一―二六〇)、
- 人よくこの仏の 無量力威徳を念ずれば(信心)
- 即のときに必定に入る(得益)この故にわれ常に念じたてまつる(称名)。(十住毘婆沙論 P.16)
と讃詠されています。これは本願成就文の意をあらわされたもので、信ずる一つで必ず仏となるべき身に定まる。だからいつも称名相続させていただくのであると、称名は不退の位に入れていただいた上の行業とされています。それで宗祖聖人はこの偈頌の意味を『正信偈』に(真聖全二―四四)、
- 「弥陀仏の本願を憶念すれば(信心)自然に即のとき必定に入る(得益)
- 唯よく常に如来の号を称して(称名)大悲弘誓の恩を報ずべし」といえり。(*)
と仰せられるのであります。道綽禅師の『安楽集』には『大智度論』(龍樹)によるとして(真聖全一―四一六)、
- 無量の行願、仏によって成ずることを得たり。報恩のための故に、常に仏に近づかんことを願ず。また大臣の王の恩寵をこうむりて、つねにその主を
念 ふがごとし。(*)
と示され、宗祖はこの文を信巻の真仏弟子の釈(真聖全二―七六)に引用されています。そのほか源信和尚の『往生要集』にも(真聖全一―八一五)、
- まさに仏恩を念じて、報の尽くるを期となして心につねに計念すべし。(*)
等という『西方要決』の文を出され、法然上人の『選択集』(真聖全一―九六九)にも同じ文を引用されています。
宗祖の上にあっては、すでに窺った通り、龍樹の『易行品』の意によって『正信偈』に信因称報義を示されてありますが、更に『教行信証』における真仮三願の解釈の結びに、その意味が示されています。すなわち、前五巻に第十八願の真実法をあらわされ、第六の化巻において第十九願諸行往生の法と第二十願自力念仏の法とを方便法として示されるのでありますが、その第二十願の自力念仏を誡められて(真聖全二―一六五)、
- まことに知んぬ、専修にして雑心なる者は大慶喜心をえず。故に宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。……往生の正行を自障障他するが故に」(往生礼讃)といえり。(*)
と述べられています。「専修にして雑心なる者」というのは、専ら称名念仏を修めていながら自力の心が離れられない者で、第二十願の行者を指します。自力念仏の人は大慶喜心をえず、仏恩を念報することもない。ということは、第十八願の他力念仏の行者は大慶喜心をえて、仏恩を念報するということになります。 このあとに三願転入の釈を示され、そのあとに(真聖全二―一六六)
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。 (*)
と結ばれています。「真宗の簡要をひろう」とは『教行信証』を著わされることであり、「不可思議の徳海を称念す」とは称名相続されることであると考えられます。そうしますと本典の製作と称名相続の全体が「至徳を報謝せんがため」ということになりましょう。
五
称名は報謝行の本になりますが、報謝行は称名だけではありません。「自信教人信」も報謝行であり、信をいただいた上からは、同類の
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p240~
脚注