興福寺奏状と教行証文類
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御開山の著述を拝読するには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方はお示しであった。例えば念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』の論難という補助線を入れることによって、御開山の問題意識を探り、御開山の著述を拝読するときの助(資助)けになるのであろう。
ここでは、梯實圓和上の『法然教学の研究』──『興福寺奏状』と『教行証文類』──から一部を抜粋し、法然教学と興福寺奏状、それの御開山の著述への影響を考える資料としてUPした。御開山の著述を拝読するときの資助になれば幸いである。
なお、『聖教全書』への参照ページは、適宜当サイトの該当する聖典にリンクした。また脚注の◇以下の文は林遊による付加であり、文字の強調なども同じである。抜粋した『法然教学の研究』には訓点を付した漢文だけなので各漢文の読み下しも適宜行った。「隠/顕」をクリックすれば読み下し文が読める。ただし読み下し文には自信がないので諸兄の校正や訂正を乞う。
目次
第一節『興福寺奏状』と『教行証文類』
一、専修念仏弾圧事件
親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』をあらわして、浄土真宗の教義体系を確立せられたとき、それは何よりも自分に念仏往生の道を教え、『選択集』を伝授せられた法然聖人の師恩に応答するという意味をもっていた。ところで、法然とその主著の『選択集』は、在世滅後を通じて聖道諸宗の人々からはげしい非難と迫害をうけたし、またそれに連坐して親鸞も苛酷な弾圧をうけた人であることを忘れてはならない。すなわち親鸞が師教を顕彰し、その真実を開顕していくことは、聖道諸宗と厳しい思想的対決をおこなうことを意味していた。だから『教行証文類』述作の意趣をのべた後序(真聖全二・二〇一頁)は、次のようなはげしい対決のことばではじまっている。
- 竊以、聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。然諸寺釈門、昏教兮不知真仮門戸、洛都儒林、迷行兮 無弁邪正道路。斯以興福寺学徒、奏達太上天皇号後鳥羽院諱尊成今上号土御門院諱為仁聖暦承元丁卯歳仲春上旬之候。主上、臣下、背法違義、成忿結怨。因茲、真宗興隆大祖源空法師、并門徒数輩、不考罪科、猥坐死罪、或改僧儀、賜姓名処遠流。予其一也。爾者已非僧非俗、是故以禿字為姓。
親鸞にとって「浄土真宗」をあらわすということは、行証久しく廃れた聖道門に対して、いよいよ証道いま盛んなる真実の教法を顕揚することであるから、当然それは、南都、北嶺の諸寺の釈門を仏法の真実義に昏きものとして批判することであったし、また諸寺の釈門にしたがって念仏を弾圧するような、邪正の道路をわきまえない洛都の儒林、すなわち権力者たちに真実の何たるかを知らせるという意味をもっていたにちがいない。
この書は『顕浄土真実教行証文類』と名づけられているが、このように教、行、証の三法を以て立題された理由の一つとして、正像末の三時において興廃のある聖道門の教、行、証に対して、三時に興廃なく、むしろ末法を救う唯一の教えである浄土の教行証を顕わすために述作されたと、先哲は一様に指摘されている。たしかにそうにちがいないが、それを主張したとき、法然、親鸞をふくめて八名が遠流(但し幸西と証空は、慈円が身柄を預るという)に処せられ、安楽、住蓮たち四名が死罪に処せられるという法難をうけねばならなかった状況が問題にされねばならない[1]。承元の法難(浄土宗では建永の法難)とよばれるこの弾圧事件を引きおこした張本は元久二年(一二〇五)十月に南都の興福寺から朝廷に提出された『興福寺奏状』とよばれる弾劾状であった。それが奏達されたのは、親鸞によれば承元元年(建永二年・一二〇七)仲春上旬(二月上旬)であったというが、そのころ親鸞も逮捕されたのであろう[2]。この法難について親鸞は、はっきりと法然一門の無実を主張される。それが、
- 主上臣下、背法違義、成忿結怨、因茲真宗興隆大祖源空法師、并門徒数輩、不考罪科、猥坐死罪、或改僧儀、賜姓名、処遠流、予其一也。(点は筆者)
ということばであった。ところで法然一門が無実であるということは、この弾圧を強行した主上臣下が、背法違義という仏教に対する逆罪を行じたことになる。しかしそのことを証明するためには、念仏弾圧を思想的に支えていた『興福寺奏状』の非法性が論証せられねばならない。『教行証文類』は確実にそれをなしとげることによって、恩師に対する遺弟の思想貴任をはたした書であったといえよう。
承元の法難に先きだって、元久元年(一二〇四)十月には、延暦寺衆徒から専修念仏者の言動を非難して、念仏の停止を天台座主真性に訴え出た。そこで法然は同年十一月七日「七ケ条の制誡」を書いて、門弟二百余人の連署をそえて座主に提出し、一往ことなきを得ている。(但しこれは上足の門弟、信空が書いたともいわれている[3]
法然入滅の年(建暦二年)の九月ごろに『選択集』が開版されると[4])、いちはやく栂尾の明恵は同年十一月に『摧邪輪』三巻を、翌建暦三年六月には『同荘厳記』一巻をつくって『選択集』を批判した[5]。その思想の根源は『興福寺奏状』と全く同じであるが、論難は『選択集』の菩提心廃捨と、聖道門を群賊に譬えたことの二点にしぼって、より具体的な教義的批判をおこなっており、これもまた法然門下にとって、どうしても応答しなければならない課題を提供していた。親鸞が『教行証文類』の「信文類」(真聖全二・六八頁)において、菩提心について二双四重の判釈をおこない、自力の菩提心に対して他力の菩提心のあることを明らかにされたのは、明恵の論難に応答する意味もあったと推定される。すなわち法然が廃捨すべきものとされたのは竪出、竪超、横出の自力の菩提心であり、それに対して願力回向の信心は、願作仏心、度衆生心という徳があり、他力横超の菩提心とよばれるべきものであるとして、明恵の菩提心正因説に対応しながら信心正因説を確立していかれたのであった[6]。
法難はさらにつづく。法然滅後五年目の建保五年(一二一七)には、山門の衆徒が専修念仏者を襲撃するという風聞が流れ[7]、同年七月には、洛西嵯峨方面の念仏者に対して念仏停止の院宣が宣下せられたと伝えられている[8]。さらに法然滅後十三回忌にあたる貞応三年(元仁元年、一二二四)には、延暦寺三千の大衆法師等によって「天裁を蒙って、一向専修の濫行を停止せられんことを請ふ子細の状」が上奏され、八月五日には専修念仏停止が宣下されている[9]。この『延暦寺奏状』については後に詳述する。また嘉禄三年(一二二七)には『選択集』の印版を、叡山の大講堂の前で焼却するということもあったと伝えられている[10]。さらに並榎の竪者定照なるものが『選択集』を非難して『弾選択』をあらわしたのに対して、隆寛が『顕選択』を書いて反駁し「汝が僻破のあたらざる事、たとへば暗天の飛礫のごとし」といったことが山門の衆徒の激昂をかい、嘉禄の法難がおこったと伝えられている[11]。すなわち六月には、東山大谷の法然の墓堂が破壊され[12]、七月には山門の強訴によって専修念仏の停止が命ぜられ、隆寛(陸奥)、空阿(薩摩)、幸西(壱岐)の三名が専修の張本として流罪に処せられたのであった[13]。さらに八月には、念仏者の余党四十四名の追放が要求されているが、それはいずれも証空、幸西、隆寛、遵西らの門弟たちとみなされる人たちであった[14]。
建長七、八年ごろ、親鸞によって育てられた関東の門弟教団が、「諸仏菩薩や神祇冥道をあなどり、悪は思ふさまにふるまうべし」と主張しているという口実のもとに、領家、地頭、名主といった在地権力者から弾圧を受けている。この建長の法難も、承元の法難と共通する思想に根ざしていたことは、親鸞みずから、
- このうたへのやうは、御身ひとりのことにはあらずさふらふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このようは、故聖人の御とき、この身どものやうくにまふされさふらひしことなり、こともあたらしきうたへにてもさふらはず。(『御消息集』・真聖全ニ・六九六頁)
といわれた如くである。
こうして『興福寺奏状』や『延暦寺奏状』に示された専修念仏弾圧の思想は、親鸞の生涯につきまとうていたのである。親鸞がこれらの奏状や、それをさらに教義的に精密化した明恵の『摧邪輪』等と、生涯をかけて対決せざるを得なかった所以である。
二、貞慶の信仰と実践
『興福寺奏状』は、法相宗の学僧で、学徳兼備の名僧として多くの人々から尊敬されていた、解脱上人貞慶(一一五五-一二一三)が元久二年十月に草したものといわれている。br> 貞慶は、少納言右中弁藤原貞憲の子であるから、祖父は保元の乱で活躍し、博学で知られていた藤原通憲(信西入道)であり、法然と親交のあった、遊蓮房円照、高野の明遍、安居院の澄憲らは、いずれも叔父にあたり、『唯信抄』の著者の安居院の聖覚は従弟にあたっている[15]。十一歳で興福寺の学僧だった叔父の覚憲を師として得度し、法相宗を学んでいる[16]。
「源空私日記」(法然伝全・七七一頁)によれば、文治二年におこなわれた大原談義に貞慶も出席していたことになっているが、醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七五頁)には名が出ていないし、真偽のほどは不明である。
しかし富貴原章信氏によれば、法然が建久元年(文治六年)二月に重源の請によって東大寺で浄土三部経を講じられたことが、貞慶に大きな衝撃をあたえたと考えられるといわれている[17]。もっとも貞慶が、この講会に列席したという証拠はない。ただその翌々年の建久三年に同法の人々と共に興福寺を去って、弥勒信仰で有名な笠置山に篭り、厳しい修行にはげむようになるが、その動機の一つに法然の浄土教ヘの対抗意識があったのではないかといわれているのである。
貞慶は『戒律興行願書』(岩波日本思想大系十五・所収)にみられるように、戒律の再興に力をそそいでいたから、法然のような無戒を標榜する立場をどうしても証認することができなかったのである。彼はまた『唐招提寺釈迦念仏願文』(日仏全四九・七七頁)にみられるように、釈尊を追慕する心深く、釈迦念仏を唱えるほど釈尊絶対主義に近い信仰をもっていたようである。この点で明恵や日蓮と共通するものがあり、阿弥陀仏を絶対化して、釈尊を軽視するかにみえる法然教学に反発したのは当然である。また釈尊の後継者とみなされ、法相宗に最も有縁の菩薩である弥勒に対しても深い信仰をささげており、『弥勒講式』(大正蔵八四・所収)はその信仰を表明したものである。そのほか『春日大明神発願文』(日大蔵・一六頁)にみられるように敬神の心も厚く、本地垂迹は彼の信仰でもあった。
それだけに、専修念仏者が神明を軽んずることに我慢がならなかったのであろう。また、海住山寺で観音の引接を求める『観音講式』(大正蔵八四・所収)を書いているから観音信仰ももっていたと考えられる。そして『観心為清浄円明事』(日大蔵・二四頁)には、「予深信西方」といい臨終には阿弥陀仏の来迎にあずかって、往生の業因を成就し、西方に往生したいと阿弥陀信仰を表明しているから、貞慶の信仰は生涯動揺しつづけていたとも考えられるが、むしろこうした雑多な信仰こそ貞慶や当時の仏教者に共通した信仰形態であったともいえよう。
貞慶は、その『愚迷発心集』(岩波日本思想大系十五・所収)に述べているように、名利をすてて生死解脱を求めて発菩提心を真剣に追求していった厳しい求道の人であった。入滅する約一ケ月前の「建暦三年正月十七日」に記された門弟憲縁の聞書の『観心為清浄円明事』(日大蔵本・二三頁)によれば、菩提心とは「冒地者菩提也、質多者縁慮心也、縁慮之心、其性本浄、即是菩提大覚之体也」といい、かかる本来清浄なる心性でもあり、大覚の体でもあるような如実の大菩提心が発起されれば不退転位を得るといわれている。 しかし自身の現実を反省して「但如予愚人、不堪観念、只以心繋心想、我心清浄、猶如満月、分別漸少、散乱聊止、心清身涼為滅罪之源歟、又可誦真言、功力広大故也」といわれている。これは『心地観経』に「凡夫所観菩提心相、猶如清浄円満月輪、於胸臆上、明朗而住」といわれたものに応じたもので、すみやかに不退転を得ようと思えば、端身正念にして如来金剛縛印を結んで、胸中の月輪を観ずべきであるが、予は愚人であって、そのような月輪観を如実には成就しえない。ただしかし真言を誦して心を繋けて自心は本来清浄であって、月輪の如くであると想いつづけていると、虚妄分別も少なくなり、散乱心もいささか止まり、身心ともに清涼になってきたが、これは滅罪の源であろうかといっている。
しかしながらまだ『心地観経』にいわれるような「塵翳無染、妄想不生、能令衆生身心清浄、大菩提心堅固不退」の境地には至れなかったと告白して次のようにいわれている。
- 非不聞其法、只不発其心也。是則機与教乖、望与分違之故歟、欲入心広大之門者、我性不堪、欲修微少之業者、自心難頼、毎遇賢老、雖聞不答。
ここで発菩提心の法門を聞いても、その心を発すことができないのは、機と教とが乖き、望みと、分とが相応しないからではなかろうかと、機教の乖隔を問題としていることは注目すべきである。そして菩提心という心広大の門に入ろうとしても、わが性分はそれに堪えられず、微少の善業でもそれをなそうとすれば、わが心は名利にとらわれてたのみにならない。どうすればよいのかと賢老にあうたびにたずねても、誰も答えてくれなかったというのである。これによって五十九年の生涯をかけて、厳しい三学の道を修行しつづけた貞慶が最後に到達したのは、発菩提心によって不退転位に入ることができなかったという自覚であったことが知られる。 親鸞が『正像末和讃』(真聖全二・五一八頁)に「自力聖道の菩提心、こゝろもことばもおよばれず、常没流転の凡愚は、いかでか発起せしむべき」と述懐されたのと、まさに符を合するものといわねばならない。こうして最後に貞慶は「予は深く西方を信ず」といい、臨終の聖衆来迎に望みを託して、
- 西方往生、機劣土勝、因軽果重、然現有往生事、挙世不疑、是只弥陀本願之威力也。・・・・・・但真実浄土業成就、多在彼聖衆摂取暫時之間歟、不爾争最下凡夫、以麁浅之縁、忽生微妙之浄土、永得不退転利乎、是則不思羅中之不思議也。
といっている。凡夫が不退の浄土に往生することをうるのは、機劣土勝、因軽果重で、因果の理にあわないようだが、それをあらしめるのは弥陀の本願力の不思議であろうといい、それも臨終来迎によって業成せしめるのであろうという。すなわち称念等の麁浅の業によって往生が決定するのではなく、それは来迎を感ずる縁であって、真実の正因正業は来迎の瑞相を見て、希有心を発し、大乗心すなわち真実の菩提心に住することが正因となるのであるといわれている。貞慶の願生思想も、結局は発菩提心を正因とするというところに帰するようである。
三、『興福寺奏状』の概要
『興福寺奏状』は、はじめに法然の専修念仏について九箇条の失をあげ、次いでその一一について所論を展開し、最後に副進奏状一通を加えている[18]。
「副進」の部分を見ると、この奏状を上進せねばならなかった理由は、法然が専修念仏の一門に偏執して八宗を滅亡させようとしているからである。その停止を天奏に及ぼうとしたところ、いちはやく法然は怠状(詫び状)を提出し、心配するに及ばないという院宣を賜わったというので、興福寺の衆徒はかえって反感をもつにいたったという。法然が怠状(一本では急状)を提出し、安堵の院宣を得たという記録はここだけにしかみられない。
ところでさきに、叡山からの推問に答えて法然は『七箇条の制誡』を山門に送ったが、それについて門人たちは「上人之詞皆有二表裏一、不レ知二中心一、勿レ拘二外聞一(聖人の詞にみな表裏あり、中心を知らず、外聞にこだわるなかれ)」といい、その後も邪見を改めていない。だから法然の申し開きは全く信用できないといい、最後に、
- 望請恩慈、早経奏聞、仰七道諸国、被停止一向専修条々過失、兼又行罪科於源空并弟子等者、永止破法之邪執、還知念仏之真道矣、仍言上如件。
元久二年十月日 「隠/顕」
- 望み請ふらくは、恩慈、早く奉聞を経て、七道諸国に仰せて、一向専修条条の過失を停止せらるべく、兼ねてまた罪過を源空ならびに弟子等に行われれば、永く破法の邪執を止めば、還って念仏の真道を知らん。仍(よ)って言上件のごとし。
- 元久二年十月 日
といって、専修念仏の停止と、法然及びその門弟への罪科を強硬に要請しているのである。
さて、『興福寺奏状』の前文をみると、
- 右、謹考案内[19]、有一沙門、世号法然、立念仏之宗、勧専修之行、其詞雖似古師、其心多乖本説、粗勘其過、略有九箇条。「隠/顕」
- 右、謹んで案内を考うるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。
といって、第一新宗を立つる失、第二新像を図する失、第三釈尊を軽んずる失、第四万善を妨ぐる失、第五霊神に背く失、第六浄土に暗き失(浄土を暗くする失)、第七念仏を誤る失、第八釈衆を損ずる失、第九国土を乱る失、の九箇条の失をあげている。この九箇条は、専修念仏の社会的影響を問題にした第一、第二、第五、第八、第九の五失と、教義を問題にした第三、第四、第六、第七失とに分類することができよう。その論難は要するに、法然の説く専修念仏の教説は、その詞は、道綽、善導という古師のそれに似ているが、その心は本説に乖いた邪説であり、仏法のみならず、国家、社会の秩序を乱す造悪者の集団であるときめつけているのである。
ところでこの『興福寺奏状』をみるかぎり、貞慶は『選択集』は読んではいなかったようである。しかしすでにのべたように、『三経釈』は見ていたと考えられるから、法然の主張の根幹を把握することはできたと思う。従って法然の専修念仏説が、古師の本説に随順するのみならず、これこそ弥陀、釈迦、諸仏の真意にかなった法門であることを証明しなければ『興福寺奏状』の背法違義性は明らかにならない。親鸞が『教行証文類』を「文類」の形式であらわされたのは、ただ『楽邦文類』などの様式をまねたということだけではなくて、むしろ文類形式をとることによって、専修念仏の教説が仏陀や祖師の真意にかなう「浄土真実の宗旨」であることを、仏祖をして語らしめる為であったと考えられる。
特に専修念仏が真実行であり、大行であることを証明する「行文類」には、釈尊の教説と真宗伝灯の七高僧を一人のこらず引証されるばかりか、法照、憬興、宗暁、慶文、元照、遵式、戒度、用欽、嘉祥、飛錫といった、各宗の祖師の文を引釈されたのもそのためであったと考えられる。
四、浄土宗独立への批判と反論
第一、新宗を立つる失
我が国には、すでに八宗があって、中古以来、宗を開くものがいなかったのは、これで機感が足りているからであろう。然るに今、法然は面授口決の師もなく、はっきりとした相承もなくして一宗を開くことは、自身が伝灯の太祖だというのか。また開宗には「須下奏二公家一以待中勅許上、私号二一宗一甚以不当」「隠/顕」法然がみずから、相承血脈の法なく、面授の師なしと公言されたのは、文治六年に東大寺で講ぜられた「小経釈」(真聖全四・三八二頁)のときで、恐らく貞慶はこれによって法然を批判していたと考えられる[20]。『選択集』はまだ読んでいなかったと推察されるが、『選択集』「二門章」(真聖全一・九三四頁)には、一往浄土宗の相承を明かして『安楽集』による六師と、『唐・宋両伝』による六師とをあげてある。また「浄土五祖伝」(『漢語灯』九・真聖全四・四七七頁以下)には、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の五祖相承を示されたが、法然の基本的な立場は「偏依善導一師」であったことは『選択集』(真聖全一・九九〇頁)その他に言明された通りである。従っていわゆる師資相承は必ずしも明確ではなかったといえよう。そこで親鸞は、法然の意をうけてさらに展開し、「正信偈」や『高僧和讃』に、いわゆる七祖相承を明示して、師資相承なしという批判に応答していかれたのである[21]。
ところで開宗には「必ず勅許を待つべし」という批判は、律令体制下にあっては当然の主張であった。律令体制にかぎらず、国家が宗教をその支配体制のなかに完全に組み入れようとするときは、当然このような立場をとるし、体制内宗教は、いつでも新宗教に対して貞慶の如き主張をするわけである。ただ法然がめざしていた宗教的世界は、一人一人の悩める凡夫が、如来の大悲を聞き、念仏して大悲に包摂せられ、そこに絶対の安住の場を得しめられていくという宗教的領域であった。念仏者は、社会的な階層を超えて、平等に、一人一人が如来の教法のなかで、往生人としてめざめていくという個人の救いをめざす宗教が法然の浄土宗であった。それゆえにまた全人類的な視野をもつ世界宗教として成立していったのである。そのような宗教的世界においては、人はみな如来の前にあって平等に一子の如く憐念されているものとして見出されていった。このような宗教的世界観を支えるものは、ただ如来の教法の権威のみであり、本願の教法に無私に信順するものだけが、その世界に入りうるのであった。
選択本願を宗旨とする浄土宗は、根源的には如来の本願によって立つものであって、世俗の権力によって許可されなければ成立しえないというものではなかった。浄土宗が、この自立性を失って、世俗の権力に迎合することを法然はきびしく拒絶したのであった。承元(建永)の法難によって四国へ配流される直前に、次のような法語を法然は残されている。
- 当初依弟子過、有被流讃岐国云事、其時対一人弟子、述一向専念義。西阿弥陀仏云弟子推参云、如此御義、努(力カ)々々不可有事候、各不可令申御返事給云々、上人云、汝不見経釈文哉、西阿弥陀仏云、経釈文雖然、存世間譏嫌許也。上人云、我雖被截頚、不可不云此事云々、御気色尤至 誠也、奉見人々流涙随喜云々[22]。「隠/顕」
- 当初(そのかみ)、弟子の過(とが)に依って讃岐国に流されるということあり。その時、一人の弟子に対して一向専念の義を述ぶ。西阿弥陀仏という弟子、推参して云く。このごとき御義は努努(ゆめゆめ)有るべからざる事にて候ふ、おのおの御返事を申さしめ給うべからずと、云々。上人云く。汝は経釈の文を見ざるや。西阿弥陀仏の云く。経釈の文しかりといえども世間の譏嫌を存する許(ばか)りなり。上人云く。我、頸(くび)を截(き)らるといえども、この事を云わざるべからずと、云々。御気色もっとも至誠なり。見たてまつる人々、涙を流して随喜せりと、云々。(流罪時の西阿への教誡)
法然は決して、世俗の権力を否定したのではなかった。たゞ仏法が世俗の権力に迎合して、みずからが依って立つ本願の仏意をゆがめるようなことは決して許さなかったわけである。法然にとって絶対的な権威は経釈の文意であった。これだけは、世俗の権力に抗してでも護り伝え、頚(くび)を截られてもいはねばならないといい切られたところに、法然の浄土宗が、国家権力とは全くちがった次元、すなわち選択本願に依って立ち、仏祖の経釈の権威と、それを信奉する念仏者によって成立し、護持されていたことがわかる。『行状絵図』三七(法然伝全・二四ニ頁)によれば信空が法然の御遺跡をどこに定むべきかとたずねたとき、
- あとを一廟にしむれば、遺法あまねからず、予が遺跡は諸州に遍満すべし、ゆヘいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化也。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず海人漁人がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし。
と答えられたという。この語が法然のものかどうかたしかめるすべはないが、少くとも門弟たちは、法然の信仰をこのように領解していたということは明らかである。すなわち法然が、一廟一寺に自己の遺跡を定めようとせず、念仏する人の心奥に遺跡を確立しようとされていたということは、さらにいえば浄土宗は念仏者一人一人の中で信と行によって確立されるべきであるとみられていたと考えてよかろう。ここに宗の建立は「公家に奏して以て勅許をまつべし」という貞慶の思想との根本的なちがいがあった。のちに親鸞が「余の人を強縁として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめ〱まふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ*」[23]といい、念仏者以外の権力者の手をかりて仏法を弘めることを、きびしく誡められた。本願によってのみ自立すべき仏法を、俗権にゆだねていくことの危険性をよく知っておられたからである。法然や親鸞が浄土宗(浄土真宗)の開宗に、あえて勅許を求めようとしなかった所以もそこにあったのではなかろうか。
「十一箇条問答」(『指南抄』下本・真聖全四・二一三頁)によれば、法然は浄土宗の開宗について、余宗から論難をうけたのに対して次のように応答されている。
- 問、八宗九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由にまかせたつること、余宗の人の申候おばいかゞ申候べき。答、宗の名をたつることは仏説にはあらず、みづからこゝろざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひ、みなかくのごとし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経(正依経)につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまヘる先達の宗の名をたてたまヘるなり。宗のおこりをしらざるものゝ、さようの事をば申なり。
もともと宗の名は釈尊が立てられたものではなくて、各宗の祖師といわれる人々が、みずからに有縁の経教を学び、義理をきわめて宗義を確立し、宗名を立てていかれたのである。いま浄土宗を立てるのも、浄土三部経の奥義をさとりきわめて、そこに凡夫入報の仏意を釈顕された善導の釈義により、元暁等の先例にしたがって「浄土宗」の名を立てるのであって、決して「自由にまかせたつること」ではないといわれるのである。このように立教開宗の正当性を主張されたのが『選択集』「二門章」であった。貞慶は『選択集』は読んでいなかったにせよ、たとえば「大経釈」をみていたならば、このような法然の主張を知ることができたはずである。にもかかわらず、浄土宗を立つることを不当と非難するところに、律令体制下の既成仏教と、法然教学とは本質的なちがいがあったといわねばならない。すなわち律令によって規定された通り、国家公認のもとに、国家(実際は天皇と公家)の安穏を祈る鎮護国家のつとめを仏法の第一の使命とみている既成仏教と、彼等が関心の外に追いやっていた庶民のなかにあって、生死にまどい、愛憎に苦しむ庶民大衆に、真実の救いの道を開くことを仏法の第一義とみなして開宗した法然の浄土宗とは、その発想の根底から異っていた。両者は所詮違った道を行くしかなかったのである。
ところで『奏状』には、立宗の法則について次のようにのべている。
- 凡立宗之法、先分義道之浅深、能弁教門之権実、引浅兮通深、会権兮帰実。大小前後、文理雖繁、不出其一法、不超其一門。探彼至極以為自宗。「隠/顕」
- およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を探って、以て自宗とす。
法然が浄土宗を立てたとき、聖道の諸宗と根本的に立宗の目的を異にしていた。聖道門の諸宗は、教理の浅深を問題として教相判釈をおこなって立宗したのに対して、法然は、教理の浅深よりも、時機相応の教法を選択するというところから出発していた。教理が如何に深遠であっても、戒定慧の三学に堪えられない愚鈍のものにとっては、「理深解微」の故に無縁の法でしかなかった。かくて末法五濁の凡愚という「わが身に堪えたる法」を求めて到達したのが「極悪最下の人のために、極善最上の法を説く*」選択本願念仏の法門だったのである[24]。そこから聖道門を捨てて、浄土門に帰すという浄土宗独立の宣言がなされていったのであった。
親鸞は、この法然の立宗の根本精神を継承しつつさらに展開し、聖道門内に成仏の遅速に応じて漸教(権教)と頓教(実教)を分類して、竪出(権教)、竪超(実教)とし、浄土門内にも自力の漸教(権教)と他力の頓教(実教)とを分けて、横出(権教)、横超(実教)とし、竪出竪超、横出横超の二双四重の判釈をおこなわれたのであった[25] 。しかもこの二権二実の立場に立つ二双四重判をさらに深めて、「行文類」(真聖全二・三八頁)の一乗海釈には、
- 大乗无有二乗三乗、二乗三乗者入於一乗。一乗者即第一義乗也、唯是誓願一仏乗也。「隠/顕」
- 大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
といって、全仏教を念仏成仏の法門である浄土真宗に統一し、誓願一仏乗という三権一実[26]の法門を樹立していかれたのであった。こうして『奏状』に、
- 若夫以浄土念仏名別宗者、一代聖教唯説弥陀一仏之称名、三蔵旨帰、偏在西方一界之往生歟。「隠/顕」
- もし夫れ浄土の念仏を以て別宗と名づけば、一代の聖教、ただ弥陀一仏の称名のみを説き、三蔵の指帰、偏(ひとえ)に西方一界の往生のみに在らんか。
と皮肉な反語をもって非難したものを真向から受けとめて、『教行証文類』の総序(真聖全二・一頁)には、
- 爾者凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。「隠/顕」
- しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。(総序 P.131)
と言い切っていかれたのであった。
第二、新像を図する失
これは専修念仏の伝道者が、摂取不捨曼荼羅とよばれる図像を用いて絵解きをし、民衆教化に絶大な成果をあげていったことに対する反発である。
- 近来諸所翫一画図、世号摂取不捨曼陀羅、弥陀如来之前有衆多人、仏放光明、其種々光、或枉而横照、或来而返本、是顕宗学生、真言行者為本、其外持諸経誦神呪、造自余善根之人也、其光所照、唯専修念仏一類也。「隠/顕」
- 近来、諸所に一の画図を翫ぶ。世に摂取不捨の曼陀羅と号す。弥陀如来の前に衆多の人あり。仏、光明を放ち、その種種の光、或は枉(ま)げて横に照し、或は来りて本に返る。是れ顕宗の学生、真言の行者を本とし、その外に諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造(な)すの人なり。その光の照すところ、ただ専修念仏の一類なり。
鎌倉時代の摂取不捨曼荼羅が現存しているといわれているが、私はまだ見ていない。しかしこの説明文で大体のことはわかる。顕密の学僧や、諸行を修して往生を願っている「聖」たちのところでは、光は横にそれたり、返照して、彼等は光の外にはじき出されていた。そして出家在家をえらばず専修念仏者はすべて光の中に摂め取られているという図柄になっている。これは明らかに『観経』の「念仏衆生、摂取不捨」の文意を、善導が『観念法門』(真聖全一・六二八頁)に、
- 但有専念阿弥陀仏衆生、彼仏心光常照是人摂護不捨。総不論照摂余雑業行者。「隠/顕」
- ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねに この人を照らして、摂護して捨てたまはず。総じて余の雑業の行者を照摂することを論ぜず。
と釈されたのをうけた、『選択集』「摂取章」(真聖全一・九五五頁)や「観経釈」(『漢語灯』一・真聖全四・三四三頁)などの意を図像化したものである。現実の社会では、人間としての存在を認められないほど抑圧され搾取されていた民衆や、民間宗教家として体制外に生きていた「聖(ひじり)」たちが、念仏者になることによって、如来の光の中に摂取され、真の仏弟子として認知されていくのである。それに対して体制内の僧侶たちは、如来の光の外に、すなわち真実の仏法から外れたところにいるということを暗示しているこの図像は、たしかに専修念仏者が、既成の仏教に対してなした大胆な挑戦であったといえよう。
だから明恵の『摧邪輪』にも、無住の『沙石集』[27]などにもとりあげられてはげしく非難されているのである[28] 。
ところで『奏状』には、「念仏衆生、摂取不捨」について、法然と全くちがった見解を出して、摂取不捨曼荼羅の不当なることを指摘している。
- 上人云、念仏衆生摂取不捨者経文也、我全無過云々、此理不然、偏修余善、全不念弥陀者、実可漏摂取光、既欣西方、亦念弥陀、寧以余行故、隔大悲光明哉。「隠/顕」
- 上人云く、「念仏衆生摂取不捨は経文なり。我、全く過なし」と云云。この理然らず、偏(ひとえ)に余善を修して、全く弥陀を念ぜざれば、実に摂取の光に漏るべし。既に西方を欣び、また弥陀を念ず、寧(なん)ぞ余行を以ての故に、大悲の光明を隔てんや。
ここに貞慶の基本的立場である諸行往生説の主張がみられるが、それについては後述することにして、親鸞が『教行証文類』において、「念仏衆生、摂取不捨」の金言を、行信の益として救済成立の基盤とされていることに注目してみよう。まず「行文類」(真聖全二・三三頁)には、
- 何況十方群生海、帰命斯行信者、摂取不捨、故名阿弥陀仏。是曰他力。是以龍樹大士、曰即時入必定、曇鸞大師、云入正定聚之数。仰可憑斯、専可行斯也。「隠/顕」
- いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(行巻 P.186)
といい、『礼讃』[29]の釈義をうけて、摂取不捨を阿弥陀の名義とし、これを仰信し、専修するものは、名義の如く摂取不捨の益を与えられるから、即時に必定に入り、正定聚に住せしめられるといって、現生正定聚説を確立しておられる。
また「信文類」(真聖全二・七二頁)では、現生十益の第六に心光常護益をあげ、真仏弟子釈(同・七八頁)には摂取不捨曼荼羅の根拠となったと考えられる『観念法門』の文が引用されて、念仏者のみが真仏弟子であることの証拠とされている。また「総不論照摂余雑業行者」という部分だけが、「化身土文類」(同・一五二頁、同・一五六頁)に引用されて、諸行が仏心にかなわない方便仮門であることの証文とされている。宗祖が摂取不捨曼荼羅を用いて伝道されたかどうかはわからないが、それが決して「古師の本説に乖く」ものでないことをこうして論証されていった。後に親鸞の門流で多く用いられた光明本尊は、これの変型とも考えられる。
五、釈尊観と神祇観
第三、釈尊を軽んずる失
「夫三世諸仏慈悲雖均、一代教主恩徳独重(それ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主(釈尊)、恩徳独り重し)」、しかるに専修は阿弥陀仏以外の余仏を礼称せずといって釈尊を軽んずるが、本師の名を忘れた憐れむべきものであると論難するのである。
貞慶の釈尊観は、彼が建仁元年に唐招提寺でおこなった釈迦念仏会の願文(日仏全)によって知ることができる。それによれば、釈尊は、諸仏の棄てたまうた十悪五濁の娑婆の導師として出現し、大悲の本願をもって極悪の穢土を救いたまう慈悲の父母である。一体に四徳を兼ねた比類なき能化の本師であって、仏々平等であるとしても、娑婆の我等にとって第一と仰ぐべきであるとしている。だから彼は弥陀念仏に対して釈迦念仏を提唱したのであって、この釈尊中心主義は、明恵、日蓮に継承されていくのであった。彼等が弥陀中心主義の専修念仏に鋭く対決してきた根底には、このような仏陀観の違いがあったのである[30]。
これに対して法然の釈尊観は、聖道門の教主としての面と、浄土三部経の教主として、選択本願念仏の一道を指勧する発遣の仏としての面とを見ていかれる。そして聖道を捨てて、浄土に帰せしめていくところでは、招喚の救主阿弥陀仏に対して、弥陀念仏の一道を教える発遣の善知識としての地位に立たれることになる。ここに釈尊を最尊の仏と仰ぐ貞慶と根本的なちがいがあった。
親鸞は「信文類」真仏弟子釈(真聖全二・七五頁)に、念仏者を真仏弟子とよび「釈迦、諸仏之弟子」と言明されたが、これは貞慶や明恵の論難を意識されていたと考えられる。ところで親鸞の釈尊観は、法然をうけつつ発遺の教主としての釈尊を、第十七願によって位置づけ、十方の諸仏とともに第十七願力に乗じて出現し、本願の名号を讃嘆することを出世の本懐としている能讃仏とし、さらに『和讃』にいたれば、釈尊は、久遠実成の阿弥陀仏の応現であるとして*、完全に阿弥陀仏中心の仏陀観を確立されていくのであった。
第四、万善を妨ぐる失
法然が諸善万行を廃捨したことを非難するもので、第六の「浄土に暗き失(浄土を暗くする失)」と同意である。
ただ第六が往生浄土の行業としての諸行を廃したことを非難するのに対して、今は広く万善諸行を廃捨したことを謗法罪であると論難している。
彼によれば、すべて善根は、釈尊が永劫にわたる難行苦行をかさねて、それが成仏道であることをたしかめられたものであって、機縁に応じて行ぜしめ、病に応じて与え、それぞれ解脱させていく出離の要路である。しかるに法然は、弥陀の名号を専修する一行のみに偏執して、万善諸行という出離の要路を捨てしめたことは、まさに謗法罪にあたる。法然には謗法の意志はなかったかも知れないが、門弟たちの行状からすれば、師弟ともに同罪であるといわねばならぬ。ところで『大経』によれば「弥陀悲願引摂雖広、誹謗正法捨而無救(弥陀の悲願、引摂広しと雖も、誹謗正法、捨てて救ふことなし。)」、それゆえ法然一門は、阿弥陀仏からも見捨てられたものというべきだとしている。
特にここに法然によって廃捨された万善諸行の例として、『法華経』の読誦をはじめ、華厳、般若の帰依、真言、止観の結縁、堂塔の建立、尊像の造図など、当時の仏教界で善根として勧進されていたすべてが「土の如く、沙のごとく」捨てられていった状況をのべている。
ところで法然によれば、弥陀念仏は、阿弥陀仏が因位に選択摂取し、その仏徳のすべてをこめて成就された往生の行法であって、選捨された諸行とは質的にちがっていることを明かそうとされていた[31]。その意をついで展開した親鸞は、『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四三頁)に名号を「万行円備嘉号」といい、「大行者、則称无礙光如来名。斯行・摂一切行極速円満(大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。)」といい、また「万善円修之勝行」といって、一行に万善円修の徳をもつ至極の勝行であることを顕示し、念仏を万行中の一行とみる貞慶らの考えを論破していくのであった。
また万行を捨てて、念仏一行を専修し浄土を願生することは、弥陀の本願、釈尊の発遣、諸仏の証誠に随順する真仏弟子としての正当な行動であって、決して誹謗正法でないことは、すでに善導が『散善義』(真聖全一・五三四頁)で確認されていることであるとして、親鸞は「信文類」(真聖全二・七五頁)に真仏弟子釈を施されたのであった。そしてむしろ謗法のとがを受けねばならないのは、専修念仏者を弾圧した興福寺や叡山の僧徒であり、主上臣下であると告発しておられる。すなわち「信文類」(真聖全二・一〇二頁)に『薩遮尼乾子経』によって大乗の五逆を出すなかに、
- 三者、一切出家人、若戒、無戒、破戒、打罵呵責、説過禁閉、還俗駈使、債調断命。「隠/顕」
- 三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
という罪状をあげ、また「化身土文類」(同・一九〇頁)に『大集経』を引いて、
- 若復出家不持戒者、有以非法而作悩乱、罵辱毀呰、以手刀杖打縛斫截。若奪衣鉢、及奪種種資生 具者、是人則壊三世諸仏真実報身、則排一切天人眼目。是人為欲隠没諸仏所有正法三宝種故。「隠/顕」
- もしまた出家して戒を持たざらんもの、非法をもつてして悩乱をなし、罵辱し毀呰せん、手をもつて刀杖打縛し、斫截することあらん。もし衣鉢を奪ひ、および種々の資生の具を奪はんもの、この人すなはち三世の諸仏の真実の報身を壊するなり。すなはち一切天人の眼目を排ふなり。この人、諸仏所有の正法三宝の種を隠没せんと欲ふがためのゆゑに。
等といわれたものがそれを雄弁に物語っている。
第五、霊神に背く失
- 念仏之輩永別神明、不論権化実類、不憚宗廟大社、若牒(恃カ)神明必堕魔界云々、於実類鬼神者 置而不論、至権化垂跡者既是大聖也、上代高僧皆以帰敬。「隠/顕」
- 念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を恃めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。
法然一門の専修念仏者は、弥陀一仏に帰して、余仏余菩薩を信心の対象としなかったほどであるから、神々を帰依の対象としなかったのは当然である。ところがこのことを仏教徒から非難されねばならなかったところに、神仏習合思想に立つ旧仏教と法然の専修念仏との本質的な性格のちがいがあったとみねばならない[32]。
例えば、真宗教徒がキリスト教の神を信じないからといって、天台宗や法相宗の学僧から非難を受ける筈がないのに、神道という異教の神を信じないからといって、何故興福寺から非難されねばならないのであろうか。この非難を正当化する理論が本地垂迹説だったのである。すなわち神々を実類の鬼神と権化の霊神に分け、鬼神は別として、権化の霊神は、仏、菩薩の垂迹であるから本地は大聖である。故に霊神に帰依しないことは仏に帰依しないことになるというのである。尚神祇を権化の霊神と実類の鬼神に分類したのはこれが初めである。
異教の神々を本地垂迹という巧妙な理論で仏教の中にとりこみ、在来宗教と渡来宗教との宗教政治的融合をはかったことが、逆に仏教を純化しようとしたとき、迫害の論拠になったということはまさに皮肉である。親鸞が本地垂迹説を用いないのは法然の神祇観をうけたこととともにこの思想が専修念仏者の息の根を止めようとして迫ってきた最も危険な刃だったからでもあろう。それに対して貞慶は『春日大明神発願文』を書いているように敬神家であって、本地垂迹説は彼の信仰そのものであった。親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一七五頁)において、
- 夫拠諸修多羅勘決真偽、教誡外教邪偽異執者、涅槃経言、帰依於仏者、終不更帰依其余諸天神「隠/顕」
- それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』(如来性品)にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。
といって、仏教者が異教の神々に帰依することがあってはならないと、諸部の経論によって教誡されたものは、明らかに旧仏教の不純性を批判されたものであった。いわば彼等は「外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」(『和讃』・真聖全ニ・五二八頁)といわれた偽の仏弟子に類するものだったのである。
ところでこの条の最後に、
- 末世沙門猶敬君臣、況於霊神哉、如此麁言、尤可被停廃。「隠/顕」
- 末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤も停廃せらるべし。
といわれている。末世の沙門が君臣を敬することと、敬神とが何故対置されているのであろうか。けだし地上の支配体制と、神々の系譜とが対応しているからであろう。伊勢神宮が皇室の祖先神であり、春日神社が藤原氏の氏神であるとすれば、宗廟大社を憚からないことは、やがて地上の支配体制である主上臣下の神聖性を否認することになってくる。国家権力に従属している律令体制下の仏教にあっては、「沙門は、君臣を敬す」べきことが義務づけられていた[33]。従ってその君臣があがめている宗廟大社の霊神に帰敬することは、当然のこととして要求されていたのである。だから「此の如き麁言、尤も停廃せらるべし」と奏上したわけである。
親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一九一頁)に『菩薩戒経』を引いて、
- 出家人法、不向国王礼拝、不向父母礼拝、六親不務、鬼神不礼。
「隠/顕」
- 「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず、六親に務へず、鬼神を礼せず」と。
といましめられたのは、真の仏教者は、あらゆる世俗の権威からも、他の宗教的権威からも独立自立し、仏法のみを敬信べきことを明確にして、『興福寺奏状』と対決していかれたものと考えられる[34]。
六、諸行と念仏の問題
第六、浄土に暗き失(浄土を暗くする失)
諸行を廃し、諸行往生を認めない法然は、浄土教に暗く、人々を誤るものであると論難するのである。まず『観経』の三福、九品の行業をあげ、曇鸞の『略論』、道綽の『安楽集』、善導の伝記等を例証として、
- 上自三部之本経、下至一宗之解釈、諸行往生盛所許也。「隠/顕」
- 上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。
といい諸行往生こそ経釈の正義であると主張している。ついで往生伝等によって、曇融、善晟等が事相の一善によって順次往生を遂げたのに対して、念仏のみを行じて『大般若経』を書写しなかった道俊、専修のみを行じて釈迦像を造立しなかった覚親たちが往生の障りを感じたというあやしげな事例をあげ、「まさにしるべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、たゞ心にあり」といっている。ここにいう「たゞ心にあり」という「心」とは彼の『愚迷発心集』(岩波日本思想大系一五・二八頁)にみられる「一念の道心」であり、『観心為清浄円明事』(前出)にいわれる「清浄円満月輪の如き」真如にかなった菩提心のことであろう。石田充之氏は、貞慶の『心要鈔』(大正蔵七一・五〇頁)に、「唯識観によって一心を制伏す」といわれた性唯識一心の成就をさすとされる[35]。
ところで専修のものは、救い難い造悪者に、ほしいままに救われるといい、往生し難い小善に過ぎぬ口称のものに、上善の人と倶に往生を得るというが、本願の「乃至十念」の文意をよく知るべきである。十念は同じ念仏でも生じ易き観念や多念に対して、最下の行業をあげたものに過ぎない。戒慧ともにかけた者の「仮名の念仏は浄業熟し難く、順次往生の本意に違失あり」としなければならない。然るに専修のものは、観念の本を忘れて称名の末につき、口称の劣行をたのんで勝行たる諸行を往生の業に非ずと欺いている。どうしてそれが仏意にかなおうか。
『観経』に説かれたように、凡聖が浄土に往生するとき、仏は各々の先世の徳行に応じて上々から下々にいたる九品の階級を与えたまうのも、自業自得の道理の必然である。専修のものは下々の悪人が、上々の賢善者と倶生するように考えているが、それは「偏ヘに仏力を憑みて、涯分を測らざる愚痴の過」をおかしているというべきと非難している。
この非難のなかに、称名のみを決定業として専修し、諸行を捨てるのは、「凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等の道を失う」ことであるということばがある。貞慶にせよ、明恵にせよ、元来浄土とは、法蔵菩薩が総別の菩提心(本願)をおこし、万行を修して成就された世界であるから、浄土に往生しようと志すものは、当然菩提心をおこし、諸善万行を修して願生すべきであると考えていた。だから法然が菩提心と諸行を廃捨したことは、まさに暴論としか思えなかったのである。但し貞慶は『選択集』を読んでいなかったためか、菩提心廃捨を直接とりあげていないが、明恵は菩提心論を中心に論難したことは周知の通りである。ともあれすべての善行は、その体真如に随順し、仏果、浄土に向かう徳をもっていて、例えば念仏よりも『法華経』読誦を好むものには、それを勧め、布施行を有縁とするものには、布施を行ぜしめて往生せしめるというように、すべての機縁に応じて導くことが「仏界平等の道」であるというのが、貞慶や明恵のいう諸行往生説のすわりであった。
貞慶らにとって平等とは、因行の勝劣に相応して、勝劣の果報を感得することであった。行徳高きものと行業劣弱なものとが同一果報をうることは不平等であり、因果の道理を撥無する邪見であると考えていたのである。
- 彼帝王布政之庭、代天授宮之日、賢愚随品、貴賎尋家、至愚之者、縦雖有夙夜之功、不任非分之職、下賎之輩、縦雖積奉公之労、難進卿相之位、大覚法王之国、凡聖来朝之門、授彼九品之階級、各守先世之徳行、自業自得其理必然、而偏憑仏力不測涯分、是則愚癡之過也。「隠/顕」
- かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜[36]の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。
というところに、貞慶らのいう「仏界平等の道理」とは、実は自業自得の因果応報の理に従って無量の差別を生み出していく原理だったのではなかろうか。
これに対して法然が釈顕される他力不思議に裏づけられた選択本願における平等の道理は、一切衆生を善悪、賢愚、持戒破戒のヘだてなく、平等に涅槃の果徳を得しめるという絶対平等の救済が成立するような道理であった。
『選択集』「本願章」や、「大経釈」によれば、法蔵菩薩は、平等の大悲に催されて、選択を示現されるが、そこでは機の善悪にかかわりなく、誰でも、何時でも、何処でも受行できる至極の易行たる称名に、仏徳のすべてをこめて、最勝の行として選びとることによって、平等の慈悲を具現されたといわれている。すなわち必ず救われないものを生みだすような諸行を選び捨てて、万人が一様に救われる勝易具足の一行を選び取ったところにこそ、「仏界平等の理」の具現があるとするのであった。ここに両者の思想の根本的な違いがみられる。
自業自得の理にしたがって、各人各別の諸行によって浄土に往生するところには、当然九品の差別が厳然とあるが、平等大悲の願心の具現である本願他力の念仏によって得る、真実報土には九品の差別はないはずである。だから法然も九品の差別を本質的には否定されたのであるが、そのことを明確に顕示されたのは親鸞であった。「信文類」(真聖全二・七三頁)に、
- 大願清浄報土、不云品位階次、一念須臾頃、速疾超証无上正真道。故曰横超也。「隠/顕」
- 大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
といい、また、
- 念仏衆生、窮横超金剛心故、臨終一念之夕、超証大般涅槃。(同・七九頁)「隠/顕」
- 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
といわれた如くである。これに対して諸行往生のものは、みずからの行業の強弱によって、千差万別の果を感得するから、
- 良仮仏土業因千差、土復応千差、是名方便化身化土、由不知真仮、迷失如来広大恩徳。(「真仏土文類」真聖全二・一四一頁)「隠/顕」
- まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
と釈し、諸行往生を以て方便仮土の業因として位置づけ、自力諸行は方便、他力念仏は真実、という真仮の法門をあきらかにされたのであった。ともあれ『興福寺奏状』が提出した諸行往生の問題は、後述する『延暦寺奏状』でも、明恵の『摧邪輪』でも取りあげられ、法然滅後の浄土宗教団に課せられた最も大きな問題の一つとなっていったのである。
第七、念仏を誤る失
法然は、口称念仏を最上のごとく主張するが、元来仏教では観勝称劣が通規であって、極劣の称名を決定往生の業であるかの如く誤っていると論難するのである。
念仏といっても、所念の仏に仏名あり、仏体あり、仏体に事仏と理仏の別があり、理仏を最高とし、仏名を最下とする。また能念の相に口称と心念があり、心念に繋念と観念がある。その観念に散位から定位へ、有漏定から無漏定ヘと浅深次第があって、口称は最も浅劣であり、無漏の定善観は最も深勝である。
かくいえば専修の輩は一様に、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」というが、彼等は第十八願のみを本願と号して、他の四十七の大願を隠してしまっている。その第十八願にしても「乃至十念」と誓われたのは、「観念を以て本とし、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨て」ざる大悲仏力の深さをあらわすために「その最下を挙げ」たに過ぎないのである。「その導き易く、生じ易きは、観念なり、多念なり、・・・かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取る」道理があろうか。だから「乃至十念」の口称念仏を本願の正意と見るのは誤りである。
- 設亦雖付口称、三心能具四修無闕、真実念仏名為専修、只以捨余行為専、以動口手為修、可謂不専之専也、非修之修也、憑虚仮雑毒之行、作決定往生之思、寧善導之宗、弥陀之正機哉。「隠/顕」
- たとひまた口称に付くと雖も、三心能く具し、四修闕くることなき、真実の念仏を名づけて専修とす。ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。謂ひつべし、「不専の専なり、非修の修なり」と。虚仮雑毒の行を憑み、決定往生の思ひを作さば、寧ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。
という。こうして理深事浅、観勝称劣という聖道門の行道の価値観をもって、本願の行業を浅劣の行とし、善導もまたこの立場に立つといい、法然のいう如き専修念仏は、不専の専、非修の修で、煩悩まじりの虚仮雑毒の行であって、決定往生の行ではないとまで極言している。
ことに興福寺が法相宗であったことは、所依の論の一つである『摂大乗論』の念仏別時意説の底流があった筈である。だから貞慶は「道綽、善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず」とまでいい切るのであった。ただ善導は三昧発得の人だから、その説は一往認めるが、往生の業因をみきわめるときは、つねに一生補処の菩薩である弥勒とその祖述者たる無着、世親を依りどころとして会通しなければならないといっている。
このようにして、法然の説く選択本願念仏を真向から否定する『興福寺奏状』と鋭く対決していくのが、『選択集』の念仏論を継承する親鸞の「行文類」(真聖全二・五頁以下)であった。そこには、十方諸仏によって称讃されている「選択本願の行」こそ「浄土真実の行」であるとして、それを天台の『摩訶止観』の造語に準じて「大行」とよび、
- 大行者、則称无礙光如来名、斯行、即是摂諸善法、具諸徳本、極速円満、真如一実功徳宝海。故名大行。・・・
- 爾者、称名能破衆生一切无明能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。「隠/顕」
- 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。・・・
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
と釈顕せられた。すなわち称名は、万徳を円満し、真如一実の徳の具現した無上の行法であって、衆生の一切の無明煩悩を破り、往生成仏の志願を満たしたまう徳用をもっている。それゆえ称名は、最勝にして真実なる正定の行業といわれる大行であるというのである。この親鸞の大行釈によって、観勝称劣、理深事浅という聖道門的な行業観はおのずから論破され、阿弥陀仏が大悲をこめて選択廻向せられた本願の念仏は、わずか一声に大利無上の功徳を円満する至易にして最勝の行であるから、この一行によって、一切の衆生が一人ももれず救われていく一乗無上の行法であることが明らかになっていくのである。
七、破戒と反社会性の問題
第八、釈衆を損ずる失
ここでは専修のものは、破戒を宗とし、造悪を憚かるなかれと教え、仏教徒を堕落させ、仏法を滅亡させようとしていると弾劾している。
- 専修云、囲棊双六不乖専修、女犯肉食不妨往生、末世持戒市中虎也、可恐可悪、若人怖罪憚悪、是不憑仏之人也、如此麁言流布国土、為取人意、還成法怨。「隠/顕」
- 専修の云く「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪(にく)むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と。此のごときの麁言、国土に流布す、人の意を取らんがために、還って法の怨(あだ)と成る。
ここにあげたような表現は、専修念仏者の言い分を、非難し易いように悪意をもって表現しなおした、一種の流言であったと考えられる。たしかに不心得な念仏者のなかには、放逸無慚な反倫理的な振舞いをして非難されたものもあっただろうが、そのようなものは、民衆にうけ入れられるはずがない。民衆を動かした念仏の伝道者たちの言動は、それなりにまじめなものであったにちがいない。法然が『実秀に答ふる書』(『西方指南抄』下本・真聖全四・一九八頁)に、「ふかきみのりも、あしくこゝろうる人にあひぬれば、かヘりて、ものならずきこえ候こそ、あさましく候ヘ」と述懐されたことばが思いあわされる。
貞慶が、このころ戒律の再興に力をそそいでいたことは『戒律興行願書』(岩波日本思想大系十五・一〇頁)によって知ることができるが、彼の目には、公然と破戒無戒を宣言する専修念仏者たちは、許すべからざる不呈の輩に映ったにちがいない。
- 夫極楽教門盛勧戒行、浄土業因以之為最、所以者何、非戒律者六根難守、恣根門者三毒易起、妄縁纏身念仏之窓不静、貪瞋濁心、宝池之水難澄、此業所感豈其浄土哉。「隠/顕」
- 夫れ極楽の教門、盛んに戒行を勧む、浄土の業因、これを以て最とす。所以はいかんとならば、戒律にあらざれば六根守り難く、根門を恣(ほしいまま)にすれば三毒起り易し。妄縁身に纏(まと)はれば、念仏の窓静かならず、貪瞋心を濁せば、宝池の水澄み難し。この業の感ずるところ、あにそれ浄土ならんや。
といって、持戒を基礎として定慧をみがき、識を浄化し、転識得智して浄土を感得するという、唯識的な三学観の上にたって浄土教を見ていることは明らかである。従って「三学のうつわものにあらず」という自力無功の機の深信のうえに立つ法然教学とは、全く異質の思想であった。
ところが貞慶はすぐ下に、「たゞし末世の沙門、無戒、破戒なる、自他許すところなり。」ともいっている。恐らく彼の叔父で山門高位の僧であった安居院の澄憲も、その子聖覚も、いずれも公然たる妻帯者だったし、彼の身辺にはそのような例が無数にあったから、「自他許すところなり」といわざるを得なかったのであろう。しかし破戒無戒のものは浄土を感得できないとすれば、「自他許すところ」とは何を意味するのであろうか。彼は詞をついで、
- 雖不如実受、雖不如実持、怖之悲之、須生慙愧之処、剰破戒為宗叶道俗之心、仏法滅縁無大於此。「隠/顕」
- 実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生すべきの処に、あまつさへ破戒を宗として、道俗の心に叶ふ。仏法の滅する縁、これより大なるはなし。
という。しかし破戒、無戒のものがいかに怖れ、悲しみ、慚愧したとしても、かかる下機の救われる道がなければどうしようもない。そこに聖道仏教の限界がみられる。彼には、専修のものが破戒、無戒を超えていく成仏道として、本願を信じ念仏しているのが、ただ法滅の声としか聞こえなかったのである。このような専修の僧尼が洛辺近国はもとより、北陸、東海の諸国にまではびこっているから、「勅宣ならざるよりは、争(いか)でか禁遏することを得ん。奏聞の趣、専らこれらにあるか」と結んでいる。ここに『興福寺奏状』が一番強調したかったことがらを見ることができる。
親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一六八頁)に、
- 爾者、穢悪濁世群生、不知末代旨際、毀僧尼威儀。今時道俗、思量己分。「隠/顕」
- しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。
と、痛烈な逆批判をおこなわれたのは、この問題をついておられるのである。そして『末法灯明記』を引いて、末法における僧尼のありかたを明らかにし、破戒、無戒の故を以て末法の名字比丘を迫害するものは、仏身より血を出すに等しい逆罪であることを論証していかれたのであった。
第九、国土を乱る失
専修念仏の興隆によって、護国の仏教である八宗が衰退することは、国土の荒廃につらなり、王法の衰滅にいたるから、すみやかに専修念仏を停止せられたいというのである。
「仏法、王法猶し身心のごとし、互いにその安否を見、宜しくかの盛衰を知る」べきである。専修念仏が盛んになって来たから、王化が中興するというのならばいいのだが、事実は、専修の盛行によって三学は廃退し、八宗はまさに滅せんとしている。諸宗は念仏を信じて異心がないのに、専修は諸宗を嫌って同座せず、水火のように対立している。もし諸宗と念仏が水乳の如く和して、王化をたすけるならば、仏法王道ともに永遠に栄えるのであるが、専修は全く王化を助けようとせず、むしろ天下海内におこなわれている鎮護国家の仏事、法事を早く停止することを求めている。もしそうなってしまえば、仏事法事によって支えられている国土は乱れ、王法は衰退していくであろう。今日まだそうなっていないのは、「忝くもわが后の叡慮動くことなく明鑑の故」である。
若し後世、専修が隙を得て、君臣の心を離間させるような時がくれば、インドの弗沙密王や、唐の武宗のような廃仏の王が出現し、八宗を滅亡するようなことがないとも限らない。それは仏法の不幸だけでなく王道の破滅にもなる。そこで前代未聞の八宗同心の訴訟をおこし、聖断をあおぐわけである。
- 望請天裁、仰七道諸国、被糺改沙門源空専修念仏之宗義者、世尊付属之寄、弥和法水於舜海之浪、明王照臨之徳、永払魔雲於尭山之風矣、誠惶誠恐謹言。「隠/顕」
- 望み請ふらくは、天裁、七道諸国に仰せて、沙門源空の専修念仏の宗義を糺改せられんことを、者(てえれば)、世尊付属の寄(よせ)、いよいよ法水を舜海の浪に和し、明王照臨の徳、永く魔雲を堯山の風に払はん。
誠惶誠恐謹言。
と結んでいる。
ここに仏法と王法が安否盛衰を同じくするという、いわゆる律令体制と密着した旧仏教の理念と体質がはっきりと示されている。仏教は仏事、法事という鎮護国家の呪術を以て国家に奉仕することを使命としており、国家はそれゆえ仏教を庇護するわけである。ところが法然の開いた専修念仏の仏法は、大悲本願の念仏によって、生死の苦にあえぐ民衆の一人一人が、その苦悩より解脱していくことをめざす聞法者の集いであった。そして自身の生死出ずべき道を聞き開いたものは、同じ人生苦を背負っている同朋に、自身の信ずる念仏の大道を伝えていく伝道集団を形成していった。そこでは鎮護国家の修法は問題にならなかった。このような旧仏教の根幹をなす護国性を欠き、国家の要請を無視していく専修念仏集団の発展は、護国仏教の衰亡と、国土の荒廃をもたらすものと考えられた。ここに専修念仏者が弾圧をうけねばならない必然性があったし、親鸞が、国家権力に奉仕する仏教者を悲歎して、「この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも、法師とまふすもうきことなり」(『述懐讃』・(真聖全二・五二九頁)と述懐された所以でもあったのである。
『法然教学の研究』p.499~p.522
- ↑ 『歎異鈔』(真聖全二・七九四頁)
- ↑ 『明月記』建永二年一月廿四日の条(国書刊行会本二・九頁)に「廿四日、天晴、陰雨間降、已時出門參水無瀬殿、出御馬場殿訖後参着、頭弁出京、専修念仏之輩停止事重可宣下云云、去此聊有事故云云、其事已非軽、又不知子細、不及染筆、『同』建永二年二月九日の条(同・一一頁)に「九日、天晴、・・・・・・近日只一向専修之沙汰、被搦取被拷問云云、非筆端之所及」といい、また『同』十日の条には「十日、天晴・・・・・・今朝兼時朝臣為入道殿(九条兼実のこと)御使参、相具専修僧云云、専非可被申事歟、骨★之御本性猶以如此」と記しているから、一月下旬に念仏停止の宣下があり二月上旬に一斉検挙が行われ、兼実が救護に力をつくしていたことがわかる。
- ↑ 二尊院本『七ケ条制戒』(法然全・七九〇頁)には門弟一八九人の連署があるが『西方指南抄』中末所収本(真聖全四・一五六頁)には「已上二百余人連署」となっている。尚古本『漢語灯録』十所収本(古典叢書本・四二頁)は八七名の名が連記されている。
- ↑ 望月信亨『浄土教之研究』(六九三頁、七二七頁)、石田充之『鎌倉浄土教成立の基礎研究』(一三頁)參照。
- ↑ 『摧邪輪』下(岩波日本思想大系一五・三八九頁)、『同・荘厳記』(浄全八・八〇二頁)
- ↑ 拙論「親鸞聖人における信心正因の意義」(竜谷教学第三号所収)參照。
- ↑ 『明月記』建保五年三月廿九日の条(国書刊行会本三・三八八頁)
- ↑ 『念仏者追放宣状事』(日蓮遺文・二八一頁)
- ↑ 『歴代皇紀』四・元仁元年八月五日条(大日本史料五-二)
- ↑ 『念仏者追放宣状事』(日蓮遺文・二九七頁)、『念仏無間地獄鈔』(同上・一一四頁)
- ↑ 『行状絵図』四二(法然伝全・二六五頁)參照。尚、定照については異論があり、日蓮の『念仏無間地獄鈔』(日蓮遺文・一一三頁)には「比叡山の住侶、仏頂房隆真法橋」という。田村円澄氏は、大屋徳城氏の説をうけて、藤原定家の五男にあたる定修であろうといわれている。『法然上人伝の研究』(一七九頁)參照。
- ↑ 『百錬抄』一三・安貞元年六月廿四日の条(新訂国史大系・一六四頁)
- ↑ 『同右』安貞元年七月五日の条(同右・一六四頁)、『皇帝紀抄』安貞元年七月六日の条(群書類二・三九〇頁)、『念仏者追放宣状事』(日蓮遺文・二七六頁)
- ↑ 田村円澄『法然上人伝の研究』(一八三頁)
- ↑ 『明義進行集』二・明遍伝(法然伝全・九九九頁)
- ↑ 田中久男『鎌倉旧仏教』「著作者略伝・貞慶」(岩波日本思想大系一五・四六一頁)參照。
- ↑ 富貴原章信「解説上人とその念仏」(『鎌倉仏教形成の問題点』一一五頁)
- ↑ 『興福寺奏状』の諸本としては、
①東京大学史料編纂所所蔵、大内文書(原本は天文八年、快尊院良願の書写)
②東大寺図書館所蔵・天保九年・公周書写本
③『大日本仏教全書』一二四「興福寺叢書」二所収(永正十八年書写)恵谷隆戒『概説浄土宗史』(四〇頁~四五頁)にはその全文が掲載されている。又『岩波日本思想大系』一五「鎌倉旧仏教」(三一二頁-三一七頁)には①を底本とされている。今はこれによって考察することにする。 - ↑ ◇案内。内に案ずる。ここでは、物事の詳細、事情を考察する意。
- ↑ 「小経釈」(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二六頁)に「爰於 善導和尚往生浄土宗 者、雖 有 経論、无人於習学、雖有疏釈、无倫讃仰、然則无有相承血脈法、非面授口決儀、唯浅探仏意、疎窺聖訓・・・・・・(ここにおいて、善導和尚の往生浄土宗は、経論ありと雖ども、習学の人なし、疏釈ありと雖ども、讃仰の倫(ともがら)なし、しかれば則ち相承の血脈の法あることなし、面授口決の儀に非ず、唯だ浅く仏意を探り、疎に聖訓を窺う・・・・・・)」といわれている。
- ↑ 『本論』第一篇第三章第五節(六四頁)參照。
- ↑ 醍醐本『法然上人伝記』「一期物語」(法然伝全・七七六頁)、同じことばが『拾遺古徳伝』七(法然伝全・六二七頁)、『行状絵図』三三(法然伝全・二二七頁)等にも記載されている。
- ↑ 『御消息集』(真聖全二・七〇八頁)◇消息上P.773
- ↑ 『本論』第一篇第三章第二節(五七頁)參照。
- ↑ 「信文類」(真聖全二・六九頁)、「同」(同・七三頁)、「化身土文類」(同・一五五頁)、『愚禿鈔』上(同・四五五頁)參照。
- ↑ ◇三権一実(さんごん-いちじつ) 。三乗は権(かり)の教えであり、一乗は真実の教えであるということ。浄土真宗では誓願一仏乗の意。
- ↑ ◇『沙石集』に「又中比、都ニ念佛門流布シテ、悪人ノ徃生スベキ由シヲ云タテヽ、戒ヲモ持チ經ヲモヨム人ハ、雜行ニテ徃生スマジキヤウヲ曼陁羅ニ圖シテ、尊ゲナル僧ノ經ヨミテ居タルニハ光明サヽズシテ、殺生スル者ニ、接取ノ光明サシ給ヘル様ヲカキテ、世間ニモテアソビケルコロ、南都ヨリ公家ヘ奏狀ヲ奉ル事アリケリ。其狀ノ中ニ云、彼地獄ノ繪ヲ見ル者ハ、悪ヲツクリシ事ヲクヒ、此曼陁羅ヲ拝スル者ハ、善ヲ修せシ事ヲカナシムトカケリ。」とある。
- ↑ 『摧邪輪』下(岩波日本思想大系一五・三七〇頁)、『沙石集』(岩波日本古典文学大系八五・八七頁)
- ↑ 『往生礼讃』(真聖全一・六五三頁)
- ↑ 成田貞寛「法然聖人と貞慶上人」(『浄土教の思想と文化』二二九頁)參照。
- ↑ 『本論』第二篇第二章第四節(二二四頁)參照。
- ↑ 法然の神祇観については第二篇第五章第一節第二項(三八七頁)參照。
- ↑ 「僧尼令」(『令義解』新訂増補国史大系・八六頁)には「凡僧尼於道路、遇三位以上者隠、五位以上斂馬相揖而過、若歩者隠」と規定されている。◇読下し:「凡僧尼、道路において三位以上に遇ふをば隠れよ、五位以上には馬を斂(おさ)めて相揖して過ぎよ、もし歩(かち)よりせば隠れよ。」 現代語:「僧尼が、道路で三位以上の人と遇ったならば身を隠すこと。五位以上ならば、下馬して会釈して過ぎること。もし歩きであれば身を隠すこと。」
- ↑ 宮崎円遵『初期真宗の研究』(五四頁)參照。
- ↑ ◇『心要鈔』には「依菩提心成就念仏。依念仏力成唯識観。依唯識観制伏一心(菩提心に依りて念仏を成就す。念仏の力に依りて唯識観を成ず。唯識観に依りて一心を制伏す。)」とある。このように唯識観によって念仏を解釈していた貞慶には、口称の専修念仏は「正定業」ではなく、煩悩まじりの虚仮雑毒の行にしかみえなかったのであった。
- ↑ ◇夙夜(しゅくや)。朝早く出仕し、夜遅くまで仕えること。