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末法灯明記

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まっぽうとうみょうき

 一巻。最澄(さいちょう)撰と伝えるが、現在では後人の作とする説も多い。仏法と王法が相依すべきことを説き、また末法においてはただ無戒名字の比丘(びく)のみであるが、この比丘を正法(しょうぼう)時の制文で律すべきでなく、世の真宝福田として尊ばれるべきことを説く。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ノート:末法灯明記

参照WEB版浄土宗大辞典の「末法灯明記」の項目

御開山は「化巻」でほぼ全文を引文されている。御開山は、末法に相応した機と教を洞察され、

三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘ふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり](化巻 P.418)

とされ、その末法の証明の為にも末法灯明記を引文されたと思われる。
それは、嘉禄の法難(1227)の遠因となった『延暦寺奏状』に対する反論であった。この 延暦寺衆徒の奏請により再度専修念仏が禁止され、『選択本願念集』の版木を焼き、法然聖人の墓を暴いて遺骸を鴨川に捨てようとまでした嘉禄の法難の因となったのである。この『延暦寺奏状』が提出されたのが元仁元年であり、『延暦寺奏状』では「諸教の修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事」(*) という末法説を非難する論難に対して、延暦寺の開祖である最澄が説いた『末法灯明記』の記述をもって反論する意があったのである。