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正定業

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しょうじょうごう

 しく衆生往生する善導大師は阿弥陀仏浄土往生する行として五正行をあげ、その中第四の称名は、本願の行であるから正定業とされる。→五正行(ごしょうぎょう)、助業(じょごう)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

正定業とは、第十八願選択された乃至十念の〔なんまんだぶ〕を称える念仏成仏行業(行為)である。この本願選択された「乃至十念」の念仏成仏の行法を受けいれた「至心信楽欲生」の三信即一の信を浄土真宗では「信心正因」というのである。──御開山は乃至十念の義意を第十七願の「諸仏称名の願」であらわされる── ゆえに「真実の信心はかならず名号を具す」(信巻 P.245)のであった。
御開山は『教行証文類』の行文類の末尾に「正信念仏偈」(行巻 P.203) を記しておられる。これは行文類と次に顕す信文類を結ぶ意であったといわれる。この「正信念仏偈」(行信偈) の「本願名号正定業」以下の文は『尊号真像銘文』(尊号 P.670) で自ら解釈され、また御開山のご影像である「鏡の御影」(*)や「安城の御影」(*) の讃にも自ら記されておられ、重要な意味をもった文言であったのだろう。──なお現在の鏡の御影の讃文は覚如上人が修復時に信因称報説を主張する為に書き換えられている。(*)

 浄土真宗教団では、法然聖人が開顕して下さった浄土の法義を、他流(特に浄土宗鎮西流)と差別化を図るために信心を強調してきた歴史がある。ことに近代に入っては形而上的な信心を強調するあまり、口に称えられる〔なんまんだぶ〕を信心正因説と相反する「称名正因」は異解であるとして「正定業」を等閑にしてきたきらいがある。そのような意味では、御開山のお示しは行信不離であるから

「これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに(是名正定之業、順彼仏願故」(信巻 P.221)

の仏願に順ずる正定業である可聞可称の〔なんまんだぶ〕を、遠慮なく称えるべきである。

この意を御開山は「行巻」と行から信を開いた「信巻」を結ぶ「正信念仏偈」で、

本願名号正定業

本願の名号は正定の業なり。
本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。

至心信楽願為因

至心信楽の願(第十八願)を因とす。
その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
信を得て如来と等しい徳をいただき、涅槃のさとりに至るのは、第十一願の功である。

とされたのである。なお正をただしくと読めば形容詞としての、道理や法則に合致して偽りや誤りが無いということであり、まさしくと読めば副詞として、ある事柄がまちがいなく成り立つさま。疑う余地の無いほど明らかにそう判断されるという意になる。善導大師ではただしくと読み、この意をうけられた御開山ではまさしくと呼ぶ方が親しいであろう。

なんまんだぶを称えたから救われるのではない。
なんまんだぶを称えた者を救うという本願があるから救われるのである。
これを『歎異抄』の著者は、

本願を信じ念仏を申さば仏に成る (第12条)

と、単純明快に示してくれたのであった。
法然聖人が、

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)

と、仰ったと御開山は『西方指南抄』に書き残して下さってあるのだが、なんまんだぶと称えて、耳に聞こえる声に決定往生のおもひをなすべしであった。 これを、本願の名号は正定の業であるというのである。

本願招喚の勅命
選択本願