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 法然中心主義から親鸞中心主義へ、[[念仏往生]]から信心往生へと教義の力点を変えていくということが[[覚如|覚如上人]]の教学の中核をなしていきます。いいかえれば[[念仏往生]]説から[[信心正因]][[称名報恩]]説へと転換していくわけです。[[平生業成]]説が[[鎮西派]]などの[[臨終業成]]説に対する真宗の特色を顕示するものであるとすれば、[[信心正因]][[称名報恩]]説は[[西山派]]や真宗内部の[[念仏往生]]説に対して、親鸞聖人の教義の綱要を明らかにするものであったといえるのではないでしょうか。
 
 法然中心主義から親鸞中心主義へ、[[念仏往生]]から信心往生へと教義の力点を変えていくということが[[覚如|覚如上人]]の教学の中核をなしていきます。いいかえれば[[念仏往生]]説から[[信心正因]][[称名報恩]]説へと転換していくわけです。[[平生業成]]説が[[鎮西派]]などの[[臨終業成]]説に対する真宗の特色を顕示するものであるとすれば、[[信心正因]][[称名報恩]]説は[[西山派]]や真宗内部の[[念仏往生]]説に対して、親鸞聖人の教義の綱要を明らかにするものであったといえるのではないでしょうか。
  
 ところで[[平生業成]]という四字の熟語を本願寺系の方で一番最初にいったのは存覚上人です。存覚上人の『浄土真要鈔』本に、
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 ところで[[平生業成]]という四字の熟語を本願寺系の方で一番最初にいったのは[[存覚上人]]です。存覚上人の『[[浄土真要鈔]]』本に、
 
:親鸞聖人の一流においては、[[平生業成]]の義にして[[臨終往生]]ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし[[平生業成]]といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを[[即得往生]]といふ。 ([[真要鈔#P--960|「同前」九六一——九六二頁]])
 
:親鸞聖人の一流においては、[[平生業成]]の義にして[[臨終往生]]ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし[[平生業成]]といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを[[即得往生]]といふ。 ([[真要鈔#P--960|「同前」九六一——九六二頁]])
といわれたものがそれです。『浄土真要鈔』は、元亨四年(一三二四)、[[存覚上人]]三十五歳のときの著作ですから、[[覚如上人]]が嘉暦元年(一三二六)に『執持鈔』を書かれる二年前のものです。ところでご存じのように、『浄土真要鈔』は、『[[浄土文類集]]』という書物を書き直したものです。『[[浄土文類集]]』は、[[仏光寺]]系に伝承されていたものですが、もう少しわかりやすく、そしてもっと詳しく書き換えてほしいと[[仏光寺]](当時は興正寺)が[[了源上人]]に頼まれて、[[存覚上人]]が書き換えられたのが『浄土真要鈔』なのです。実は[[存覚上人]]はその少し前の元享二年(一三二二)に父[[覚如上人]]から義絶を宣告され、[[大谷本願寺]]を退出し、翌年[[了源上人]]の山科興正寺 (仏光寺の前身)に身を寄せるわけです。その『浄土文類集』という書物は、「同朋学園仏教文化研究所紀要』第三号(二五八頁)に、「取意鈔出」という名前で紹介されている文献がそれです。それによれば、初めに「浄土文類集二曰、取意鈔出」とあり、ついで「来迎ハ諸行往生ニアリ自カノ行者ナルカユヘニ・・・・・・臨終マツコトナシ、来迎タノムコトナシ」という『末灯鈔』第一条の冒頭の部分の文を引きまして、[[臨終業成]]説に対して[[平生業成]]説を主張していきます。そこに「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル念仏往生ノ願ニマカセテ、他力ヲタノムへキナリ」といわれています。 この「一念ノ信心サタマレハ、'''平生'''ニ決定往生ノ'''業成'''就スル」というのは、明らかに[[念仏往生]]の本願を信ずる信の一念に往生の[[業事成弁]]し往生が決定するというのですから、明らかに[[平生業成]]を述べているわけです。それを『浄土真要鈔』は「[[平生業成]]」という四字の熟語で表したわけです。ですから[[平生業成]]という言葉は、『浄土文類集』から出たともいえるわけです。『[[浄土文類集]]』は一体誰の書であるかということですが、著者の名前は書かれていませんが、この書の後半部分に説かれている善知識論から見て麻布の[[了海上人]]ではないかと考えられます。それは[[了海上人]]の書きました『[[還相回向聞書]]』や、『[[他力信心聞書]]』と全く同じ文章が出てくるからです。ですから麻布の[[了海上人]]か、あるいはその弟子ぐらいのところで書かれたものと見ていいと思います。それゆえ[[仏光寺]][[了源上人]]の元にあったわけです。『還相回向開書』や『他力信心開書』については、私が以前考察した「初期真宗における善知識論の一形態」(指著「浄土教学の諸問題」上巻所収)であるとか、「「他力信心開書」の一考察」(拙著『浄土教学の諸問題」上巻所収)などをご参照ください。
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といわれたものがそれです。『[[浄土真要鈔]]』は、元亨四年(一三二四)、[[存覚上人]]三十五歳のときの著作ですから、[[覚如上人]]が嘉暦元年(一三二六)に『執持鈔』を書かれる二年前のものです。ところでご存じのように、『[[浄土真要鈔]]』は、『[[浄土文類集]]』という書物を書き直したものです。『[[浄土文類集]]』は、[[仏光寺]]系に伝承されていたものですが、もう少しわかりやすく、そしてもっと詳しく書き換えてほしいと[[仏光寺]](当時は興正寺)が[[了源上人]]に頼まれて、[[存覚上人]]が書き換えられたのが『[[浄土真要鈔]]』なのです。実は[[存覚上人]]はその少し前の元享二年(一三二二)に父[[覚如上人]]から義絶を宣告され、[[大谷本願寺]]を退出し、翌年[[了源上人]]の山科興正寺 ([[仏光寺]]の前身)に身を寄せるわけです。その『[[浄土文類集]]』という書物は、「同朋学園仏教文化研究所紀要』第三号(二五八頁)に、「取意鈔出」という名前で紹介されている文献がそれです。それによれば、初めに「浄土文類集二曰、取意鈔出」とあり、ついで「来迎ハ諸行往生ニアリ自カノ行者ナルカユヘニ・・・・・・臨終マツコトナシ、来迎タノムコトナシ」という『末灯鈔』第一条の冒頭の部分の文を引きまして、[[臨終業成]]説に対して[[平生業成]]説を主張していきます。そこに「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル念仏往生ノ願ニマカセテ、他力ヲタノムへキナリ」といわれています。 この「一念ノ信心サタマレハ、'''平生'''ニ決定往生ノ'''業成'''就スル」というのは、明らかに[[念仏往生]]の本願を信ずる信の一念に往生の[[業事成弁]]し往生が決定するというのですから、明らかに[[平生業成]]を述べているわけです。それを『[[浄土真要鈔]]』は「[[平生業成]]」という四字の熟語で表したわけです。ですから[[平生業成]]という言葉は、『浄土文類集』から出たともいえるわけです。『[[浄土文類集]]』は一体誰の書であるかということですが、著者の名前は書かれていませんが、この書の後半部分に説かれている善知識論から見て麻布の[[了海上人]]ではないかと考えられます。それは[[了海上人]]の書きました『[[還相回向聞書]]』や、『[[他力信心聞書]]』と全く同じ文章が出てくるからです。ですから麻布の[[了海上人]]か、あるいはその弟子ぐらいのところで書かれたものと見ていいと思います。それゆえ[[仏光寺]][[了源上人]]の元にあったわけです。『[[還相回向聞書]]』や『[[他力信心聞書]]』については、私が以前考察した「初期真宗における善知識論の一形態」(拙著「浄土教学の諸問題」上巻所収)であるとか、「「他力信心聞書」の一考察」(拙著『浄土教学の諸問題」上巻所収)などをご参照ください。
  
 ともあれこの『浄土文類集』によって存覚上人は、はっきりと[[念仏往生]]の信心が決定する一念に[[平生業成]]を得るという[[信心正因]]説を立てられたわけです。さらに『浄土真要鈔』末にはそのことを詳しく講述して、
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 ともあれこの『[[浄土文類集]]』によって存覚上人は、はっきりと[[念仏往生]]の信心が決定する一念に[[平生業成]]を得るという[[信心正因]]説を立てられたわけです。さらに『[[浄土真要鈔]]』末にはそのことを詳しく講述して、
 
:かるがゆゑに聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二にいはく、「[[憶念弥陀仏本願…|憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩]]」といへり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定に入る」といふは、[[正定聚]]に住し[[不退]]にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つねにその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。([[P:973|「註釈版聖典】九七三一九七四頁]])
 
:かるがゆゑに聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二にいはく、「[[憶念弥陀仏本願…|憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩]]」といへり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定に入る」といふは、[[正定聚]]に住し[[不退]]にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つねにその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。([[P:973|「註釈版聖典】九七三一九七四頁]])
  
といわれています。覚如上人が「正信偈」の龍樹菩薩章の文意によって確立される信心正因・称名報恩・平生業成説と同じであるといえましょう<ref>「信因称報」説を強調する人が必ず出してくる「正信念仏偈」の文。なお覚如上人は鏡の御影修復時に御開山の「讃嘆銘」を、この「正信念仏偈」の文に書き換えておられる。→[[鏡の御影]]</ref>。もっとも覚如上人がはっきりと信心正因・称名報恩という宗義を明言されるのは、元弘元年(元徳三年、一三三一)の報恩講のときに[[乗専]]に口授された『口伝鈔』でしたから、『浄土真要鈔』時代からいえば七年後になります。
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といわれています。覚如上人が「正信偈」の龍樹菩薩章の文意によって確立される[[信心正因]]・[[称名報恩]]・[[平生業成]]説と同じであるといえましょう<ref>「信因称報」説を強調する人が必ず出してくる「正信念仏偈」の文。なお覚如上人は鏡の御影修復時に御開山の「讃嘆銘」を、この「正信念仏偈」の文に書き換えておられる。→[[鏡の御影]]</ref>。もっとも覚如上人がはっきりと信心正因・称名報恩という宗義を明言されるのは、元弘元年(元徳三年、一三三一)の報恩講のときに[[乗専]]に口授された『口伝鈔』でしたから、『[[浄土真要鈔]]』時代からいえば七年後になります。
  
 
 ところで存覚上人は、その[[信因称報]]説の根拠を[[第十八願成就文]]の教意に求められています。この点は覚如上人も同じですが、成就文の乃至一念の理解に両者は異なりが見られます。[[本願成就文]]の「[[乃至一念]]」に、存覚上人は[[隠顕]]を立てられます。
 
 ところで存覚上人は、その[[信因称報]]説の根拠を[[第十八願成就文]]の教意に求められています。この点は覚如上人も同じですが、成就文の乃至一念の理解に両者は異なりが見られます。[[本願成就文]]の「[[乃至一念]]」に、存覚上人は[[隠顕]]を立てられます。
 
:この一念について隠顕の義あり。[[顕]]には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。[[隠]]には、真因を決了する安心の一念なり。([[P:967|「同前】九六七頁]])
 
:この一念について隠顕の義あり。[[顕]]には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。[[隠]]には、真因を決了する安心の一念なり。([[P:967|「同前】九六七頁]])
  
といわれたものがそれです。顕の義からいえば本願の「乃至十念」に対望するから[[行の一念]]であるが、隠の義からいえば往生の因が決定する[[信の一念]]であるといわれるのです。そうすると顕の義からいえば念仏往生、一念(一声)の念仏に決定往生の徳があるという念仏往生の法義になり、隠の義からいえば信の一念であって、念仏往生の本願を開信する信心が初めて起こったとき(一念)に往生の真因が決定するという信心正因の法義を表すことになるというのです。これは法然聖人が成就文の一念を行の一念とされたのと、親鸞聖人が同じ成就文を信の一念とされたのとを両立させようとするもので存覚上人の教学的な境位を示していたといえましょう。
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といわれたものがそれです。顕の義からいえば本願の「乃至十念」に対望するから[[行の一念]]であるが、隠の義からいえば往生の因が決定する[[信の一念]]であるといわれるのです。そうすると顕の義からいえば念仏往生、一念(一声)の念仏に決定往生の徳があるという念仏往生の法義になり、隠の義からいえば信の一念であって、念仏往生の本願を聞信する信心が初めて起こったとき(一念)に往生の真因が決定するという信心正因の法義を表すことになるというのです。これは法然聖人が成就文の一念を行の一念とされたのと、親鸞聖人が同じ成就文を信の一念とされたのとを両立させようとするもので存覚上人の教学的な境位を示していたといえましょう。
  
 
 それに対して覚如上人は、そのような隠顕を立てず、成就文の一念は、信の一念であると取りきってしまわれます。そして、諸仏が讚嘆されている本願の名号を聞信した[[時剋の極促]] (一念)に往生の業事は[[成弁]]し、一声の称名も待たずに[[正定聚]][[不退]]の位につくという[[信心正因]]説を確立していかれるわけです。すでに往生の因は信の一念において成就しているのですから、信後の称名は報恩の大行であって、往生の因に擬すべきではないという[[信心正因]]・[[称名報恩]]説を確立していかれたのでした。『口伝鈔』第二十一条に、
 
 それに対して覚如上人は、そのような隠顕を立てず、成就文の一念は、信の一念であると取りきってしまわれます。そして、諸仏が讚嘆されている本願の名号を聞信した[[時剋の極促]] (一念)に往生の業事は[[成弁]]し、一声の称名も待たずに[[正定聚]][[不退]]の位につくという[[信心正因]]説を確立していかれるわけです。すでに往生の因は信の一念において成就しているのですから、信後の称名は報恩の大行であって、往生の因に擬すべきではないという[[信心正因]]・[[称名報恩]]説を確立していかれたのでした。『口伝鈔』第二十一条に、
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 ここでははっきりと[[念仏往生]]に対して[[信心正因]]を表すという徹底した[[信因称報]]説が開顕されています。そしてまた『浄土真要鈔』では、平生に仏法にあう機にとっては[[平生業成]]であるが、臨終に法にあう機は臨終に往生するといわれています。しかし『口伝鈔』では、平生・臨終を問わず、信一念に往生が決定することを平生業成というとされていて、平生業成説が徹底されています。それはともあれ[[信心正因]]・[[称名報恩]]・[[平生業成]]という説は、むしろ覚如上人よりも先に存覚上人が説かれていたことに注意したいと思います。
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 ここでははっきりと[[念仏往生]]に対して[[信心正因]]を表すという徹底した[[信因称報]]説が開顕されています。そしてまた『[[浄土真要鈔]]』では、平生に仏法にあう機にとっては[[平生業成]]であるが、臨終に法にあう機は臨終に往生するといわれています。しかし『口伝鈔』では、平生・臨終を問わず、信一念に往生が決定することを平生業成というとされていて、平生業成説が徹底されています。それはともあれ[[信心正因]]・[[称名報恩]]・[[平生業成]]という説は、むしろ覚如上人よりも先に存覚上人が説かれていたことに注意したいと思います。
 
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2024年8月12日 (月) 09:55時点における最新版

梯實圓和上は自著『法然教学の研究』のはしがきで、

 江戸時代以来、鎮西派西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如蓮如信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。

と、仰っておられた。
その意味では覚如上人、そして蓮如さんが強調され浄土真宗の常教とされる「信因称報」説は、御開山の浄土思想の一部を強調したもので御開山の浄土思想の全体ではない。だから「信因称報」一本槍の教学は法然聖人の念仏往生思想と齟齬が生まれているのだろう。
以下の引用は梯實圓和上の『親鸞教学の特色と展開』中の講演録からの抜粋である。脚注は文字の強調は林遊が付した。

覚如教学の特色

 鎌倉時代にいわゆる鎌倉仏教と呼ばれる新しい仏教が開かれたわけですが、その宗祖や派祖たちの教説を教学的に組織し、整理する時代が、鎌倉の末期から南北朝時代、ちょうど覚如上人の時代になるわけです。浄土教でもそれぞれの派に、それぞれ優れた人たちが出て、自らの信奉する派の教学の特色を強調していく時代なのです。共通点よりも相違点を明らかにすることによって、自宗の立場を鮮明にすることに力を尽くすような時代だったと思います。そういうなかで覚如上人も、親鸞聖人の教学の特色は何か、親鸞聖人でなければいえなかったことは何かということを探り、確認していく、そういうのが覚如上人の教学であったと思うのです。そのために覚如上人は、一つには法然門下の異流、いいかえれば浄土宗内の異流に対して親鸞聖人の教えの特色を鮮明にすると同時に、真宗の正当性を明らかにする。第二には親鸞聖人の門弟集団のなかにもさまざまな派が存在するが、そのなかで、三代伝持血脈を伝える本願寺の教学が正当であることを力説しようとされたわけです。まず真宗の集団のなかに一般的に見られる法然中心主義から親鸞中心主義へと転換し、親鸞聖人の教えの本質をはっきりと確立していくということが、覚如上人が目指されたことだったと思います。

 まずはじめに鎮西浄土宗の批判です。これは先にも述べましたように『口伝鈔』第九条に出ています。鎮西浄土宗多念義的傾向を強くもっていることは明らかで、したがって、その宗義は臨終業成説を強調することは明らかです。そして第十八願の念仏を散善の行(行福の一種)とし、それは行者がなすべき自力の行であるとし、それに強力な増上縁である本願力(他力)が加わって救済が成立すると考える救済論は、とうてい法然聖人の正統とはいえないというのが覚如上人の鎮西浄土宗観でした。そういうことがあって『口伝鈔』に見られるような多念義批判、臨終業成説批判となり、弁阿上人自身を法然聖人の言葉をかりて批判するというような過激な論調になったのだと思います。

 西山浄土宗への批判ですが、これも『口伝鈔』第十四条のなかで取り上げられております体失往生不体失往生の論争が有名です。はたしてこのような事件が実際にあったのかどうか、確かめる資料はほかにないようです。実は証空上人の往生思想は、『口伝鈔』に出ているような体失往生説といいきることはできないようです。例えば証空上人の『當麻曼荼羅註』巻八には、「即便往生は安心、当得往生は所期なり」(『西山全書』二・一四五頁)といい、平生に三心安心を得たときに直ちに往生を証得するといい、それを即便往生というとされているからです。そして事実に彼の土に生まれることが現れるのは臨終の後であって、それを当得往生というといわれているわけです。これから見れば当得往生体失往生ですが、即便往生不体失往生ですから、証空上人はむしろ不体失往生説を採っておられたというべきです。だからあの『口伝鈔』の事件は証空上人がまだそこまで到達していなかった若年のころの話で、このときを契機に不体失往生説に転向されたといえばつじつまは合うわけですが、あれは少し問題が残ります。

 それから覚如上人の多念義批判を見ておく必要があります。多念義といえば長楽寺流ともいわれるように隆寛律師を派祖とする流派ですが、隆寛律師は必ずしも多念義と断定することはできません。そのことについて、すでに私は『一念多念文意講讚」(永田文昌堂・一九八六年) のなかで詳しく述べましたからそれを参考にしていただきたいと思います。ただ覚如上人のころの長楽寺流は多念義そのものだったと思います。しかし、覚如上人の多念義批判はむしろ鎮西派に向けられていたように思います。覚如上人は、鎮西派もやはり多念義とみなされていました。鎮西派でも一応は一念・多念に偏執してはならないとはいいますが、弁阿上人の『浄土宗名目問答』下巻や、『念仏名義集』中巻などを見ますと、やはり純然たる多念義だといっていいでしょう。平生業成を否定して臨終業成説を採り、臨終行儀を重視して臨終来迎を要期するということが多念義の特色であるとすれば、弁阿上人良忠上人多念義であったとみなしていいと思います。覚如上人は多念相続の念仏は報恩の営みとみなして、徹底した信一念業成を強調されるわけですから、多念義を厳しく批判されるのは当然だといえます。それはすでに『御伝鈔』時代からあります。あの『御伝鈔』上の 第六段に有名な「信行両座」の段がありますが、これは本願を信ずる一念に往生が決定すると領解しているのか、それとも念仏を称えた功徳によって往生が定まると領解しているのかを確かめようとしたという説話です。その信不退の座は明らかに信一念業成を主張する立場であり、行不退の座は多念相続による臨終業成説、すなわち多念義の立場を表していました。そして信不退の座に着くのは親鸞聖人の他には信空上人、聖覚法印、熊谷直実、そして法然聖人であって、他は皆行不退の座に着いたといわれているのです。

 このようなことがはたして本当に行われたのかは問題ですが、それに近い話はあります。もちろん法然聖人や親鸞聖人のことではありませんが、一念の座と多念の座を分けた人がいます。それは信瑞上人の書かれた『明義進行集』に出てくる東山の空阿上人の伝記のなかにあるのです。空阿上人は、嘉禄の法難に連座して薩摩に流罪になった方で、無智の空阿ともいわれ、「多念の純本」といわれている方です。この方は自分の門下に集まった人々を「一念の座」と、「多念の座」とを分けて両者を混在させなかったといわれています。つまり一念義系の者と多念義系の者とが一緒になれば、必ず互いに非難しあって諍論が起こるから、両者を混在させなかったというのです。空阿上人は声明の大家であって、彼の所へは一念義系の者も多念義系の者も声明を習いに来ていたからでしょう。この『明義進行集』の著者の信瑞上人は、法然聖人の直弟子ではありませんが、信空上人の弟子であり、隆寛律師の弟子でもあって、その書物は確実性の高いものですから、この「一念の座」と「多念の座」を分けたという話は確実性の高い説話なのです。『御伝鈔』の信不退行不退の説話は、『明義進行集』の一念の座と多念の座を分けたというあの話が関東の門弟集団のなかで混同して伝えられていたのではないかとも考えられます。しかし、覚如上人は、この説話によって親鸞聖人は信の座に着いて行の座に着く者を批判するという立場をとられた方で、それが法然聖人の真実義であったと主張されるわけです。『口伝鈔」第二十一条に、「されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす」(『註釈版聖典」九一一頁)とはっきりと言明されていますが、それは覚如上人が極めて一念義系に近い境位に立って親鸞聖人の教義を理解されていたことを表しています。ですから覚如上人は幸西大徳一念義系を決して異端視はされていません。もちろん一念義をそのまま肯定するわけではありません[1]幸西大徳の思想と、親鸞聖人の教義とはすいぶん違っております。違っていますけれども法然門下の先輩のなかで、隆寛律師や聖覚法印とともに親鸞聖人に大きな影響を及ぼした人物の一人であることは明らかです。

 それから、もう一つ、嵯峨門徒も批判されているようです。覚如上人の時分には正信房湛空上人の系統を引く嵯峨門徒が有力だったようです。この正信房湛空(一一七六一一二五三)を覚如上人は、『御伝鈔』の信心一異の諍論に登場させています。『歎異抄』の信心一異の諍論では、親鸞聖人(善信房)の論争の相手は勢觀房念仏房だけでしたが、『御伝鈔』ではそれに正信房を入れてあります。対論の相手に正信房を入れたということは嵯峨門徒に対する、覚如上人の思いというものが表れていると見ていいのではないでしょうか。

 法然中心主義から親鸞中心主義へ、念仏往生から信心往生へと教義の力点を変えていくということが覚如上人の教学の中核をなしていきます。いいかえれば念仏往生説から信心正因称名報恩説へと転換していくわけです。平生業成説が鎮西派などの臨終業成説に対する真宗の特色を顕示するものであるとすれば、信心正因称名報恩説は西山派や真宗内部の念仏往生説に対して、親鸞聖人の教義の綱要を明らかにするものであったといえるのではないでしょうか。

 ところで平生業成という四字の熟語を本願寺系の方で一番最初にいったのは存覚上人です。存覚上人の『浄土真要鈔』本に、

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。 (「同前」九六一——九六二頁)

といわれたものがそれです。『浄土真要鈔』は、元亨四年(一三二四)、存覚上人三十五歳のときの著作ですから、覚如上人が嘉暦元年(一三二六)に『執持鈔』を書かれる二年前のものです。ところでご存じのように、『浄土真要鈔』は、『浄土文類集』という書物を書き直したものです。『浄土文類集』は、仏光寺系に伝承されていたものですが、もう少しわかりやすく、そしてもっと詳しく書き換えてほしいと仏光寺(当時は興正寺)が了源上人に頼まれて、存覚上人が書き換えられたのが『浄土真要鈔』なのです。実は存覚上人はその少し前の元享二年(一三二二)に父覚如上人から義絶を宣告され、大谷本願寺を退出し、翌年了源上人の山科興正寺 (仏光寺の前身)に身を寄せるわけです。その『浄土文類集』という書物は、「同朋学園仏教文化研究所紀要』第三号(二五八頁)に、「取意鈔出」という名前で紹介されている文献がそれです。それによれば、初めに「浄土文類集二曰、取意鈔出」とあり、ついで「来迎ハ諸行往生ニアリ自カノ行者ナルカユヘニ・・・・・・臨終マツコトナシ、来迎タノムコトナシ」という『末灯鈔』第一条の冒頭の部分の文を引きまして、臨終業成説に対して平生業成説を主張していきます。そこに「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル念仏往生ノ願ニマカセテ、他力ヲタノムへキナリ」といわれています。 この「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル」というのは、明らかに念仏往生の本願を信ずる信の一念に往生の業事成弁し往生が決定するというのですから、明らかに平生業成を述べているわけです。それを『浄土真要鈔』は「平生業成」という四字の熟語で表したわけです。ですから平生業成という言葉は、『浄土文類集』から出たともいえるわけです。『浄土文類集』は一体誰の書であるかということですが、著者の名前は書かれていませんが、この書の後半部分に説かれている善知識論から見て麻布の了海上人ではないかと考えられます。それは了海上人の書きました『還相回向聞書』や、『他力信心聞書』と全く同じ文章が出てくるからです。ですから麻布の了海上人か、あるいはその弟子ぐらいのところで書かれたものと見ていいと思います。それゆえ仏光寺了源上人の元にあったわけです。『還相回向聞書』や『他力信心聞書』については、私が以前考察した「初期真宗における善知識論の一形態」(拙著「浄土教学の諸問題」上巻所収)であるとか、「「他力信心聞書」の一考察」(拙著『浄土教学の諸問題」上巻所収)などをご参照ください。

 ともあれこの『浄土文類集』によって存覚上人は、はっきりと念仏往生の信心が決定する一念に平生業成を得るという信心正因説を立てられたわけです。さらに『浄土真要鈔』末にはそのことを詳しく講述して、

かるがゆゑに聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二にいはく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」といへり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定に入る」といふは、正定聚に住し不退にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つねにその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。(「註釈版聖典】九七三一九七四頁)

といわれています。覚如上人が「正信偈」の龍樹菩薩章の文意によって確立される信心正因称名報恩平生業成説と同じであるといえましょう[2]。もっとも覚如上人がはっきりと信心正因・称名報恩という宗義を明言されるのは、元弘元年(元徳三年、一三三一)の報恩講のときに乗専に口授された『口伝鈔』でしたから、『浄土真要鈔』時代からいえば七年後になります。

 ところで存覚上人は、その信因称報説の根拠を第十八願成就文の教意に求められています。この点は覚如上人も同じですが、成就文の乃至一念の理解に両者は異なりが見られます。本願成就文の「乃至一念」に、存覚上人は隠顕を立てられます。

この一念について隠顕の義あり。には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。には、真因を決了する安心の一念なり。(「同前】九六七頁)

といわれたものがそれです。顕の義からいえば本願の「乃至十念」に対望するから行の一念であるが、隠の義からいえば往生の因が決定する信の一念であるといわれるのです。そうすると顕の義からいえば念仏往生、一念(一声)の念仏に決定往生の徳があるという念仏往生の法義になり、隠の義からいえば信の一念であって、念仏往生の本願を聞信する信心が初めて起こったとき(一念)に往生の真因が決定するという信心正因の法義を表すことになるというのです。これは法然聖人が成就文の一念を行の一念とされたのと、親鸞聖人が同じ成就文を信の一念とされたのとを両立させようとするもので存覚上人の教学的な境位を示していたといえましょう。

 それに対して覚如上人は、そのような隠顕を立てず、成就文の一念は、信の一念であると取りきってしまわれます。そして、諸仏が讚嘆されている本願の名号を聞信した時剋の極促 (一念)に往生の業事は成弁し、一声の称名も待たずに正定聚不退の位につくという信心正因説を確立していかれるわけです。すでに往生の因は信の一念において成就しているのですから、信後の称名は報恩の大行であって、往生の因に擬すべきではないという信心正因称名報恩説を確立していかれたのでした。『口伝鈔』第二十一条に、

しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。・・・・・・一念をもつて往生治定の時刻と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理をあかせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。 (「同前」九一○─九一一頁)[3]

 ここでははっきりと念仏往生に対して信心正因を表すという徹底した信因称報説が開顕されています。そしてまた『浄土真要鈔』では、平生に仏法にあう機にとっては平生業成であるが、臨終に法にあう機は臨終に往生するといわれています。しかし『口伝鈔』では、平生・臨終を問わず、信一念に往生が決定することを平生業成というとされていて、平生業成説が徹底されています。それはともあれ信心正因称名報恩平生業成という説は、むしろ覚如上人よりも先に存覚上人が説かれていたことに注意したいと思います。


  1. 覚如上人は、西山義や幸西大徳の一念義を学んでおられた。→覚如#mark
  2. 「信因称報」説を強調する人が必ず出してくる「正信念仏偈」の文。なお覚如上人は鏡の御影修復時に御開山の「讃嘆銘」を、この「正信念仏偈」の文に書き換えておられる。→鏡の御影
  3. 御開山は『一念多念証文』の総結で、
    浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。  南無阿弥陀仏 (一多 P.694)
    と、一念・多念に論争に対し、浄土真宗では一念・多念に拘らない念仏往生とされておられた。