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乃至一念

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ないし-いちねん

 心念・称名・時刻などの極少の一念をあげ、さらに多念をも含める意があるので「乃至一念」という。下至一念に同じ。→一念。   (唯信鈔 P.1354)  

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 乃至一念((すなわ)ち一念に至るまで)

仏教語と世間語は同じ言葉なのだが意味が違うので誤まった解釈をしてはならない。世間語で一念といえば、心に深く思いこむこと。またその心をいふ(広辞苑)。また一念岩をも通す、などと強い信念を一念ともいふ。
これに対して浄土真宗の一念とは、梵語 eka-kṣaṇa(エーカクシャナ)、極めて短い時間(刹那)と eka-citta(エーカチッタ)、心のひとおもいの二義を一念と漢訳した一念である。
ここから、本願成就文の、

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。

の、乃至一念の解釈に《顕》の時剋の初発の一念と《隠》の信相(信心のすがた)の乃至一念、すなわち(乃)初発の信の一念から一生涯にいたる(至)までの本願を信知した信心の相続を乃至一念(すなわち一念に至るまで)とされたのであろう。
ともあれ浄土真宗では「浄信」といわれるように妄想した強い信念の思い込みを信心といふのでは無かった。

ないし-いちねん 乃至一念

一念」とは心念・称名・時刻などの極小を表し、「乃至」は多念を含めることを表す。『大経』には第十八願成就文(註41)、三輩段(註43)、弥勒付属(註81)の3カ所に「乃至一念」が説かれている。このなか親鸞は、第十八願成就文の「乃至一念」を信の一念、弥勒付属の「乃至一念」を行の一念とする。→行の一念、→信の一念 (浄土真宗辞典)
乃至