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かくにょ

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覚如から転送)

覚如(1270-1351)

 覚如(かくにょ)上人の(いみな)。本願寺第三代。覚信(かくしんに)公の孫で、覚恵(かくえ)法師の長子。

はじめ慈信房(じしんぼう)澄海(ちょうかい)について内外の典籍を学び、ついで宗澄(しゅうちょう)から天台、行寛から唯識を学ばれたが、弘安十年(1287)奥州(おうしゅう)大網(おおあみ)如信上人に会って宗義を受得された。

その後、父覚恵とともに東国の親鸞聖人の遺蹟を巡拝し、帰洛して『報恩講私記』『御伝鈔』を著された。正安三年(1301)『拾遺古徳伝(しゅういことくでん)』を作り、浄土門流における親鸞聖人の地位を明らかにされた。翌年覚恵法師から留守識譲状(るすしきゆずりじょう)を受け、延慶(えんきょう)三年(1310)留守識に就任し、以後越前大町をはじめ諸地方に教化し、また『口伝鈔(くでんしょう)』や『改邪鈔(がいじゃしょう)』を著して三代伝持の血脈を強調し、仏光寺系の教学を批判するなど本願寺教団の確立に尽力された。

しかし長子存覚(ぞんかく)上人とは不和が絶えず、元亨二年(1322)に義絶してより、その後和解、義絶を繰り返された。著書には上記のほか『執持鈔(しゅうじしょう)』『願願鈔』『最要鈔』『本願鈔』『出世元意(しゅっせがんい)』などがある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『最須敬重絵詞』第十九段に、

一流の奥区を伝て自身の出要をあきらめ給うへは、広学多聞もさのみはなにゝかはせんなれども、諸家の所談もゆかしく、練磨は学者のあかぬ事なればとて、便宜の聞法をばなをすてられず、佗門の先達にも少々謁し給けり。これによりて安養寺の阿日房上人彰空に遇て、西山の法門をば聴受し給。五部の講敷にもたびたびあひ、そのほか『大経』・『註論』・『念佛鏡』などの談もありけり。又慈光寺の勝縁上人に対して、一念の流をも習学ありけり。これも『凡頓一乗』・『略観経義』・『略料簡』・『措心偈』・『持玄鈔』などいふ幸西上人の製作ゆるされによりてかきとり給けり。

とあり、西山義や幸西大徳の一念義にも通じていたと思われる。


参照WEB版浄土宗大辞典の「覚如」の項目

mbwiki:覚如