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第十八願成就文

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だいじゅうはちがんじょうじゅもん 第十八願成就文

 阿弥陀仏第十八願が成就したことをあらわす文のこと。『大経』下巻に「諸有衆生、聞其名号信心歓喜、乃至一念至心回向、願生彼国、即得往生。唯除五逆誹謗正法」と説かれており、通常は

「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで心を至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く」(『論註』での引文 論註 P.92)

と読む。親鸞は、第十八願成就文を他力回向を示した文と見て、「信巻」には

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(信巻 P.250)

と読み、また「乃至一念」「即得往生」についても、独自の見解を示している。これらについては『一多文意』などに詳細な解釈が述べられている。(浄土真宗辞典)


成就文
本願成就文
トーク:一念多念証文

◆ 参照読み込み (transclusion) 本願成就文

ほんがん-じょうじゅもん

 阿弥陀如来の「第十八願」が林遊[1]の上に成就する/したことを、釈尊が告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ[2]
『大経』には、

仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。
阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。 仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴(へ)たまへり。(大経上#弥陀果徳)

と、十劫の昔に法蔵菩薩阿弥陀仏に成られ、衆生往生する浄土を建立したとある。いわゆる法蔵菩薩四十八願の「設我得仏……不取正覚」(*)十劫の昔に成就したといふのである。

論註』には『浄土論』の、

なんとなれば荘厳(しょうごん)不虚作(ふこさ)住持(じゅうじ)功徳成就(くどくじようじゅ)とは、に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。 (浄土論 P.37

の「不虚作住持功徳成就」を釈して、

不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来本願力なり。
いままさに略して虚作の相の住持することあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕すべし。

{中略 虚作の二例を引く}

いふところの「不虚作住持」とは、本(もと)法蔵菩薩四十八願と、今日の阿弥陀如来自在神力とによるなり。願もつて力を成(じょう)ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。(論註 P.131)、(行巻 P.197)、(真巻 P.361)で引文。

と「本願力成就」をあらわされておられた。→不虚作住持功徳
「願もつて力をず、力もつて願に()く」とある、この力用の成就を本願力といふ。

しかして、御開山は、林遊の上に本願が成就する時剋の一念(信心の開け発(おこ)った最初の時)を「本願成就」とされたのである。それが「あらゆる衆生」の中の林遊であった。往生は一人のしのぎなり (一代記 P.1284)である。
本願成就文には、

あらゆる衆生、その名号をきて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
至心に回向したまへり
かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250)

とある。ここの「あらゆる衆生」を自らの名前と置き換えて読めば「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄 P.853)と述懐された御開山の御心と通じることもあろうと思ふ。

三心釈の信楽釈には、

本願信心の願成就の文、『経』にのたまはく、
「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。{以上}(信巻 P.235)

とあり欲生心釈には、

ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』にのたまはく、
至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。(信巻 P.241)

とあるように本願成就文には至心回向したまふ「欲生心成就」の意味もあった。いわゆる「欲生とは信楽の持つ意味を別に開いた」義別であった。これを願往生心とも願作仏心ともいふ。

「本願成就文」とは、林遊の上に、可聞可称のなんまんだぶを称え聞いて、阿弥陀如来の本願が成就した時剋をあらわす経文であった。本願成就とは林遊の上に本願(第十八願:わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)が信一念として成就したことを示す文であった。ありがたいこっちゃなあ。

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阿弥陀如来の第十八願

原文:
設我得仏(せつが-とくぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )誹謗正法(ひほう-しょうぼう)
読下し:
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 (大経 P.18)

が成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ。

第十八願成就文は、第十七願成就文、

原文:
十方恒沙諸仏如来(じっぽうごうじゃ-しょぶつにょらい)皆共讃歎(かいぐさんだん)無量寿仏威神功徳不可思議(むりょうじゅぶつ-いじんくどく-ふかしぎ)
読下し:
十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。(大経 P.41)

の諸仏讃嘆(名号讃嘆)を享(う)けた「あらゆる衆生、その名号を聞きて(諸有衆生 聞其名号)」に望めて、

原文:
諸有衆生(しゅう-しゅじょう)聞其名号(もんご-みょうごう)信心歓喜(しんじん-かんぎ)乃至一念(ないし-いちねん)至心回向(ししん-えこう)願生彼国(がんしょう-ひこく)即得往生(そくとく-おうじょう)住不退転(じゅう-ふたいてん)唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )誹謗正法(ひほう-しょうぼう)

とあり、この成就文を通常の漢文として読めば『論註』のように、

読下し:
諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜して、(すなわ)ち一念に至るまで、心を至し回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。唯(ただ)五逆誹謗正法とを除く。(論註 P.92)

と読むべきであろう。ところで御開山は、

御開山の読下し:
あらゆる衆生、その名号をきて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250)

至心に回向したまへりと訓じられて、衆生から仏への回向ではなく、仏から衆生への回向であると読まれた。それは本願力回向宗義をこの経文に読みとられたからであった。 阿弥陀仏より回向された信心の智慧によって成就文の経文を読み取られたのである。
御開山は『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』の成就文、

他方仏国所有衆生 聞無量寿如来名号 能発一念浄信歓喜。
他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん。(信巻 P.236)

浄信の語によって一念は信の一念であるとみられたのであった。

法然聖人が示された、なんまんだぶは「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」(選択集 P.1197) という教示により、衆生の側からの不回向とは阿弥陀如来からの回向であるとされたのである。法然聖人が浄土宗の所依の三経一論として挙げられながら言及されなかった『浄土論』『浄土論註』の本願力回向の語の示唆によって、法然聖人の深意を展開された本願力回向浄土真宗法義であった。まさに『浄土論註』によって善導・法然の教学を包み込む、あらゆる衆生を仏陀のさとりの世界へ趣(おもむ)かせる誓願一仏乗本願力回向の仏法であったのである。そして、それが、なんまんだぶを「」とする、あらゆる衆生をさとりに趣かせる「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 P.735) という「上求菩提・下化衆生」の「願作仏心」・「度衆生心」といふ大乗仏教の根源であった。信心の語に浮かれて、

横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。(信巻 P.246)

といふ信心の内実としての願作仏心を領解しないなら、それは虚妄の信心であろう。

第十八願
成就
成就文
不虚作住持功徳
火㮇
行信
浄土真宗の特長
信の一念
至心に回向したまへり
乃至一念
本願成就文の文意
一切衆生悉有仏性
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  1. 自号名(じごうみょう)(自らを名乗る号〔よび名〕)。わたしや我や我々といふ一般名詞は誰にでも置き換えることが出来る。しかし林遊といふ自号名であらわせば置き換えることはできないので林遊は自号名を使うことが多い。よそごとではなく「往生は一人のしのぎなり」(聞書 171条)だからである。
  2. 第十八願には「欲生我国 (我が国に生ぜんとおもえ)」と我が国とあり、第十八願成就文には「願生彼国 (かの国に生れんと願ずれば)」と、かの国とある。