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安心論題/おわりに

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安心論題の話

はじめに
(1)聞信義相
(2)三心一心
(3)信願交際
(4)歓喜初後
(5)二種深信
(6)信疑決判
(7)信心正因
(8)信一念義
(9)帰命義趣
(10)タノム 
(11)所帰人法
(12)機法一体
(13)仏凡一体
(14)五重義相
(15)十念誓意
(16)六字釈義
(17)正定業義
(18)彼此三業
(19)念仏為本
(20)必具名号
(21)行一念義
(22)称名報恩
(23)即得往生
(24)平生業生
(25)正定滅度
おわりに


 本派で現在定められている「安心論題」二十五題の一々については、これで一応の話を終わりました。論題の配列については、従来(昭和五十二年まで)は三経・七祖・宗祖・歴代の順、具体的にいえば、本願・善導・法然・宗祖・蓮如の順で、左記の通りでありました。

本願〕⑴三心一心 ⑵十念誓意 ⑶聞信義相 ⑷信願交際 ⑸歓喜初後 ⑹即得往生
善導〕⑺二種深信 ⑻正定業義 ⑼彼此三業
法然〕⑽念仏為本 ⑾信疑決判
宗祖〕⑿信心正因 ⒀称名報恩 ⒁行一念義 ⒂信一念義 ⒃六字釈義 ⒄帰命義趣 ⒅必具名号
蓮如〕⒆タノムタスケタマヘ  ⒇所帰人法 (21)機法一体 (22)仏凡一体 (23)五重義相 (24)平生業成 (25)正定滅度

 この配列によりますと論題の出拠がわかりやすく、また信心正因と称名報恩、行一念義と信一念義、というような関連する論題を一連のものとして学ぶ利点がありました。しかし、信に関するもの、行に関するもの、得益に関するもの、というふうに内容的にそろっていないのは、やむを得ないでしょう。


 昭和五十三年四月に勧学寮で新たにまとめられた『安心論題綱要』では、信に関するもの、行に関するもの、得益に関するもの、というように内容の上から区分し、更にそれぞれの中の配列は従来の例にならって、次のようになっています。

信  本願 ⑴聞信義相 ⑵三心一心 ⑶信願交際 ⑷歓喜初後
   善導 ⑸二種深信
   法然 ⑹信疑決判
   宗祖 ⑺信心正因 ⑻信一念義 ⑼帰命義趣
   蓮如 ⑽タノムタスケタマヘ  ⑾所帰人法 ⑿機法一体 ⒀仏凡一体 ⒁五重義相

行  本願 ⒂十念誓義
   善導 ⒃六字釈義 ⒄正定業義 ⒅彼此三業
   法然 ⒆念仏為本
   宗祖 ⒇必具名号 (21)行一念義 (22)称名報恩

得益 本願 (23)即得往生
      (24)平生業成 (25)正定滅度

 右の中、見方によっては、異なる区分に属するかと思われるものもあります。たとえば「機法一体」のごときは、信の他力なることをあらわすと見て信に属していますが、機法一体の南無阿弥陀仏として、名号の性格を示すものと見れば行に属するといえましょう。「仏凡一体」も衆生に届いた至心の徳をあらわすと見れば信に属しますが、信の得益と見ることもできましょう。「彼此三業」も衆生の身口意に関するものとして行に属していますが、念仏衆生摂取不捨の摂取の益を示すものと見れば得益とも考えられましょう。
 信・行・得益という順序は、本願の文によるものと考えられます。すなわち、「至心信楽欲生我国」が信、「乃至十念」が行、「若不生者」が得益であります。
 もし『本典』に依るならば、行・信・得益の次第になりましょう。また本願成就文に依るならば、「聞其名号」の名号は行、「信心歓喜」は信、「乃至一念」の乃至には称名相続が含まれますから行、「即得往生住不退転」は得益ということになるかと思われます。


 『本典』信巻には(真聖全二―七三)、

横超とはすなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。

と示され、『末灯鈔』には(真聖全二―六五八)、

選択本願は浄土真宗なり。

と仰せられます。浄土真宗は第十八願の法でありますから、最後にあたって、本願の文と本願成就文とについて、すこしばかり窺いたいと思います。
 宗祖親鸞聖人は、本願成就文については独特の鋭い見方をされ、その成就文と本願(因願)の文と両々あいまって、宗義をあらわされます。本願の文には(真聖全二―四八引用)、

たといわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんとおもうて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法をのぞく。

 右の文の意味を宗義の上から解説しますと、

もしわたしが仏となったならば、十方世界の人たちが、心から信じ喜び、往生安堵の想いから、上は一生涯の多念の称名から下はわずか十声の者まで、必ず浄土に来生させましょう。もしそれができなければわたしは決して仏とはなりません。ただ五逆のような重罪を造ってはなりませんし、この法を信じない者だけは来生できません。

ということになりましょう。次に本願成就文には(真聖全二―四九引用)、 あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生ぜんと願ぜば、即ち往生をえ、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく。 右の文の「回向せしめたまえり」は「回向したまえり」と同じで、「せしめ」は使役の意ではありません。そこで右のよみ方にしたがって解説しますと、

あらゆる人たちが、諸仏の称揚讃嘆されつつある弥陀の名号のいわれを聞いて、これを信じ喜ぶならば、その信心は一生涯相続するが、その信心がおこったとき――その信心は阿弥陀仏の至心から与えられたものであるから――往生を願う信一念のたちどころに浄土に往生すべき身となり、正定聚不退の位に入るのである。ただ五逆のような重罪を造ってはなりませんし、この法を信じない者だけは往生できません。

ということになりましょう。
 本願は阿弥陀仏が因位の時におこされた誓願ですから、設我得仏とか欲生我国といわれる「我」とは阿弥陀仏自身を指します。
 成就文は弥陀の誓願が成就したことを釈迦仏が説き示されるのですから、願生彼国の「彼」とは阿弥陀仏を指すことになります。
 このように因願の方は阿弥陀仏のおこされた誓願をそのまま示されたものであり、成就文は弥陀の誓願が成就している旨を釈迦仏が説き述べられたものであります。


 本願の文と成就の文とを対照しますと、次の通りであります。(便宜上、漢文のまま出す)

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 右の対照によって、因願の文には「聞其名号」の語は出ていないけれども、成就文にそれが示されていることによって、因願の三心十念は聞其名号によっておこさしめられることが知られます。
 次に因願にあては三心のあとに「乃至十念」が示されているのに対し、成就文では「信心歓喜」(信楽)のすぐあとに「乃至一念」が示され、因願の「至心」「欲生」に当たる文は「乃至一念」より後に出されています。「乃至」の語は因願にあっても成就文にあっても、一生涯の相続を省略される語であります。そうしますと、成就文によれば、聞其名号の心相を信心歓喜(信楽)の一心とし、それが生涯相続するという意味になります。この成就文の意味によって因願を見れば、三心とは言っても私のいただく相を示すのは中間の信楽一心であると知られます。逆にいえば、名号をいただいた信楽一心の徳義を開けば三心となるということが知られます。
 次に経文の当分から見れば、因願の「至心」が成就文の「至心」と出され、因願の「欲生我国」は成就文の「願生彼国」に相当すると思われますが、宗祖は成就文の「至心回向」を阿弥陀仏に属して読まれます。なぜそのような読み方をされたのかについては多くの説明を要しますので、今は『大経』の因行段に(真聖全二―六〇引用)、

大荘厳を以て衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまえり。

とある一文と『論註』下巻終り(真聖全二―三六引用)の他力釈とを指すにとどめます。
 この至心回向が如来のおんはたらきであるとすれば、因願の前後二心(至心欲生)も如来からいただいた徳義であると知られましょう。そこで、三心について約生の三心、約仏の三心、生仏相望の三心というようが見方が出てくるわけであります。
 次に因願では三心十念のあとに「若不生者」の果が示されていますが、成就文では信一念の即時に「即得往生住不退転」の益が得られると説かれています。これによって、衆生の称名をまつことなく信一念に往生が決定することが知られると共に、その信心が相続の上には必ず称名念仏となって現れてくることが知られます。
 さらに、因願にあってはその得益として往生浄土の証果を示され、成就文では現生不退の益が説かれています。これによって、この世の寿命が尽きたとき真実報土に往生するのだけれども、それが決定するのは現生信一念のときであると知られ、逆に現生に不退に住するから、臨終の善悪は問題でなく、寿尽きればまちがいなく報土の往生が得られるのであると知られます。


 以上、安心論題にとりあげられてきた信と行と得益の問題について、本願の文と成就の文とを対照してうかがいました。殊に成就の文をもって本願の文を見てゆかれるのが、宗祖聖人の態度であったと思われます。
 真宗の宗義は、正意の安心が徹底しなければ無意味でありましょう。しかし、ここに取りあげてきた安心の諸問題を取得すればそれでよいとうものではありません。真実信心をいただいた念仏者の生きざまはどうあるべきか、というような問題がさらに検討されねばなりません。もし現実の生活の上に少しもそのしるしが現れてこないような信心・念仏ならば、それは本当の信心・念仏ではない、といえばいい過ぎでありましょうか。
 宗祖聖人の晩年の御消息(お手紙)を拝見しますと、信心安心の正否の問題と、これに伴う真宗念仏者の生きざまの問題について、聖人が特に心を痛めていられたご様子が、遠い昔のこととしてではなく、今日只今の問題として、私どもに迫ってくる思いがいたします。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p281~



脚注