安心論題/はじめに
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はじめに
一
「安心論題」といいますと、何か難解でとっつきにくいものであるとか、江戸時代の宗学者がつくりあげた煩瑣な教学であるとか、あるいは教権による安心上での統制であるとか、そういうイメージが浮かんで、現代の自由研究や、主体的な味道とはあい容れないものであるかのように、思っていられるかたがいられるかもしれません。はたしてそうでありましょうか。
親鸞聖人のみ教えをまなび、浄土真宗を信奉する者にとって、ご安心が肝要であることはいうまでもないことであります。もしご安心が、人によって銘々各々に異なるというのであれば、それは祖師親鸞聖人と一味の安心でないことになり、浄土真宗の正意安心とは異なるものであるということになりましょう。
わたくしどもの安心が、宗祖聖人と一味であるか否か、正意を得ているか否かは、究極的には阿弥陀仏のみがこれを知ろしめされるといわねばなりません。ただわたしどもにできることは、祖師聖人の遺されたお聖教に窺い、また、聖人のみ教えを伝承せられた歴代宗主や、先哲諸師の指南を仰いで、くれぐれも誤ることがないように努めるほかはありません。ここにお聖教をまなぶことの重要性があると思われます。もし私どもがこの努力をおこたるならば、聖人のみ教えをみずから信じ人にもお伝えするという私どもの責務を、みずから放棄するものといわねばなりません。
二
論題というのは、真宗法義をまなぶについて、次のような順序の中で考えられると思います。
㈠ まずはじめに宗義の概要をまなぶ。いわゆる宗義概要とか真宗概要といわれるものです。これをまなぶことによって、一応、宗学全般のアウトラインを知ることができます。勿論、これと並行して、仏教概論や宗教概論をまなぶことも必要でありましょう。
㈡ つぎに真宗所依のお聖教を抜きにして真宗の法義を語ることはできないからであります。この場合、自分の主観にもとづいてお聖教を見るのではなく、虚心にお聖教そのものの示す意味をくみとるように心がけねばなりません。わたくしどもは、往々にして、自分の考えをもとにして、その考えに合うお聖教の文をさがし求め、それを自己の主張の依りどころにするというあやまちをおかしがちであります。それでは、お聖教の文を部分的にとらえて、自分勝手な理解をすること(断章取義)になってしまいます。
お聖教にかぎらず、他の人の論文を読んだり、お話を聞く場合にも、こうしたあやまちをおかさないよう、気をつけねばならないと思います。お聖教そのものをまなぶということは、ただ字句やご文の解釈をするだけ(いわゆる訓詁註疏)でよいというのではありません。けれども、こうした地味な勉学が宗学の基礎として、欠くことのできないものだと考えます。
㈢ その上で、特集研究とでも申しますか、宗義上の問題をテーマ別にうかがうことが必要になってまいります。それが「論題」といわれるものでありましょう、先哲はそれぞれ多くのテーマを設けて、宗義上の見解をまとめ、その成果をのこされています。そのテーマは人により、また時代によってさまざまであり、その中の二十部ほどの書物をとりあげてみても、四百五十にのぼる論題が数えられます。
それらの論題を、大正十四年に勧学寮において、「宗乗論題百三十題」として集約せられました。その中、内題百十、外題二十とし、さらにその内題の中の三十題を安心論題、七十題を教義論題とし、残りの十題は秘事法門等の異安心に関する附題とされました。このことは、近くは「真宗論叢」の中の「真宗百論題集」下の巻末に「解題」として示されています。
このように論題がまとめられたことによって、従来は本派の学階[1]を取得するについて「殿試」(御殿における試験)を受けるときには、その出題範囲が限定されていなかったために、どのような問題が出るか全く分からなかったのでありますが、それ以後は安心論題三十題の中から出題されるようになったということであります。
その後、昭和三十九年には、龍谷大学の真宗学科における一カ年の講義時間数などを勘案して、三十題では多すぎるということで、「三願欲生」・「転教口称」・「三不三信」・「一念多念」・「誓願名号」の五題をはぶき、安心論題は二十五題として現在にいたっています。
三
ところで、安心論題といえば安心について論じた題目であり、教義論題といえば教義について論じた題目でありますが、厳密に考えますと、一々の論題について、これは安心これは教義というように判然と区別できない面があると思われます。見方によっては、真宗教義はすべて安心と無関係にはありえませんし、また安心論題とされているものも、真宗教義とは別のものとは考えられないからであります。
しかしながら、安心論題として選定されているものは、主として安心に関する大切な論題であると見られることもまた事実でありましょう。
たとえば「信願交際」(本願における信楽と欲生との関係、成就文における信心歓喜と願生彼国との関係)を論ずる場合、信楽(信心歓喜)を据わりとしないで、欲生(願生彼国)の方を据わりと理解するならば、それは正意安心と異なるものといわねばなりません。教義論題の方は、たとえば「十劫久遠」(阿弥陀仏は十劫の昔に成道された仏と見るのが据わりか、それとも無始久遠の仏であると見るのが据わりか)という論題の場合は、十劫と久遠とそれぞれの見方があって、十劫が据わりであると理解しても、久遠が据わりであると主張しても、それは直接には安心の正否にかかわるとは考えられないからであります。
「安心」という語は、善導大師の『往生礼讃』の前序(真聖全一―六四八)(往生礼讃 P.654)に、安心・起行・作業ということが述べられてありますが、その語を用いられたものでありましょう。この場合、安心の安とは安置・安定の意味であって、安心とは、どのように心を安置するか、どこに心を安定するかという意味と見られます。したがって、『往生礼讃』の前序では、安心として、至誠心・深心・廻向発願心の三心を示され、殊にそのなかの深心については、「真実の信心なり」と釈されています。こういうわけで、安心と信心とでは言葉のニュアンスはちがいますけれども、結局は同じことであるといえましょう。
蓮如上人は「安心」という語を多く用いていられますが、その中には安心を「やすきこころ」とよむというご解釈(真聖全三―四三五)(御文章 P.1119)もあります。しかし、それは転訓(かわったよみかたをすること)によって、「やう(様)もいらぬ取りやすの安心」であるという宗義をあらわされるのであって、安心という語の本来の意味は、やはりさきにうかがった通りでありましょう。
なお、上来、真宗の法義をまなぶについて、㈠まず宗義の概要をまなぶ、㈡つぎに真宗所依の聖教をまなぶ、㈢さらにテーマ別に論題として考究する、ということを述べてきましたが、そのほか、思想史的な研究も必要であり、浄土異流や仏教各宗の教義との比較研究、あるいは他の諸宗教や思想との比較研究。更には現代科学の研究成果との関連についての研究といったことも必要でありましょう。
四
思うに、真宗教義にあっても不易と流行との両面があると考えられます。流行というのは、人により時代によって展開してゆく面であり、不易というのは、たとえ人が変わり、時代が移り変わっても変わらない面であります。教義の解明は時代の推移にともなって深化し発展するものといえますが、安心そのものは一貫して変わらないものだと思います。
このたび、安心論題の解説を書くように求められましたので、つい引き受けましたが、よく考えてみると、これはやすやすと書けるものではないようです。しかもこれを平易に書くということになると、いっそうむつかしい仕事であります。とうてい私のごときはこれを全うすることはできますまい。それを承知の上で、あえて書いてみようと思った次第であります。さいわい、多くのかたがたに見ていただくことによって、ご叱正をいただけるならば有難いと存じます。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p1~
脚注
- ↑ 浄土真宗本願寺派における、僧侶の資格のひとつ。真宗学、仏教学に通じた者に与えられる学位で、順に、得業・助教・輔教・司教・勧学の5段階が ある。