「唯信鈔文意」の版間の差分
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− | 親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたものである。このなか題号の釈および初めの3文(法照禅師の『五会法事讃』の文、慈愍三蔵の文、善導大師の『法事讃』の文)の釈が詳しく、重要な法義上の発揮がみられる。 | + | {{Kaisetu| 親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたものである。このなか題号の釈および初めの3文(法照禅師の『五会法事讃』の文、慈愍三蔵の文、善導大師の『法事讃』の文)の釈が詳しく、重要な法義上の発揮がみられる。<br> |
− | + | 聖人が『唯信鈔』を尊重され、また、門弟にしばしばこれを熟読することを勧められていることは、消息の記事や数回にわたる写伝の事実などから知られるところであるが、『唯信鈔』に引文される経釈の文について、聖覚法印は詳細な解釈は施されていない。本書は巻末の文からもうかがえるように、この『唯信鈔』の要文を解釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されるとともに、「極楽無為涅槃界」の釈に見られるような深遠な釈を施して、浄土真宗の法義をより明らかにされたものである。}} | |
− | 聖人が『唯信鈔』を尊重され、また、門弟にしばしばこれを熟読することを勧められていることは、消息の記事や数回にわたる写伝の事実などから知られるところであるが、『唯信鈔』に引文される経釈の文について、聖覚法印は詳細な解釈は施されていない。本書は巻末の文からもうかがえるように、この『唯信鈔』の要文を解釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されるとともに、「極楽無為涅槃界」の釈に見られるような深遠な釈を施して、浄土真宗の法義をより明らかにされたものである。 | + | |
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+ | 「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつ[[ならぶ]]ことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力を[[たのみて]]自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のこと[[ならはず]]となり、すなはち[[本弘誓願]]なるがゆゑなればなり。 | ||
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− | :「[[如来尊号…|如来尊号甚分明 十方世界普流行 | + | :「[[如来尊号…|如来尊号甚分明 十方世界普流行]] |
− | :但有称名皆得往 観音勢至自来迎]]」(五会法事讃) | + | : [[如来尊号…|但有称名皆得往 観音勢至自来迎]]」(五会法事讃) |
「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊<span id="P--700"></span>号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、[[号は…|「号」は]]仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、[[不可称不可説不可思議]]にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。 | 「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊<span id="P--700"></span>号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、[[号は…|「号」は]]仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、[[不可称不可説不可思議]]にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。 | ||
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:「[[彼仏因中…|彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来]] | :「[[彼仏因中…|彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来]] | ||
− | : | + | : 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 |
− | : | + | : 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 |
− | : | + | : 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃) |
「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀仏なり。「因中」は法蔵菩薩と申ししときなり。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ、「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ、「誓」はちかひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと申すなり。 | 「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀仏なり。「因中」は法蔵菩薩と申ししときなり。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ、「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ、「誓」はちかひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと申すなり。 | ||
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− | :「[[極楽無為…|極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 | + | :「[[極楽無為…|極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生]] |
− | :故使如来選要法 教念弥陀専復専]] | + | : [[極楽無為…|故使如来選要法 教念弥陀専復専]]」([[法事讃 (七祖)#71|法事讃・下五六四]]) |
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「[[ほめたてまつりて安養と申す]]」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、[[おろおろ]]その名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、[[常楽]]といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の[[心なり]]。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。<ref>仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす</ref>法身はいろもなし、かたちもましまさず。しか<span id="P--710"></span>れば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。[[この一如より]]かたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より[[応化|応・化]]等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業に[[さへられず]]、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。 | 「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「[[ほめたてまつりて安養と申す]]」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、[[おろおろ]]その名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、[[常楽]]といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の[[心なり]]。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。<ref>仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす</ref>法身はいろもなし、かたちもましまさず。しか<span id="P--710"></span>れば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。[[この一如より]]かたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より[[応化|応・化]]等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業に[[さへられず]]、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。 | ||
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「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも | 「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも | ||
− | ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「[[摂取]] | + | ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「[[摂取]]して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」([[往生礼讃 (七祖)#P--662|『礼讃』・意 六六二]])と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾<span id="P--712"></span>く[[生死海]]をこえて[[仏果]]にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の[[三信心]]なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして[[無上涅槃]]にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。[[慶は…|慶は]]よろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「[[極難信法]]」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにす<span id="P--713"></span>ぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして[[無上の信心]]をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に[[三恒河沙の諸仏]]の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力に[[まうあふ]]ことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、[[余の仏聖]]を[[いやしうする]]ことなかれとなり。 |
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− | + | 【5】<br> | |
+ | 「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「[[具此三心…|具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生]]」([[往生礼讃 (七祖)#P--654|礼讃 六五四]])とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。 | ||
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れ<span id="P--714"></span>ずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は[[定散二機]]の心なり、[[定散二善]]を[[回して]]、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、[[多生曠劫]]をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。 | 「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れ<span id="P--714"></span>ずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は[[定散二機]]の心なり、[[定散二善]]を[[回して]]、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、[[多生曠劫]]をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。 | ||
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+ | 「[[不得外現賢善精進之相]]」([[観経疏 散善義 (七祖)#P--455|散善義 四五五]])といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ<span id="P--715"></span>となり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。[[このこころは…信心なり|このこころは]]上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。 | ||
<span id="no7"></span> | <span id="no7"></span> | ||
− | + | 【7】<br> | |
+ | 「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といふは、もろもろの戒をやぶり、罪ふかきひとをきらはずとなり。このやうは、はじめにあらはせり。よくよくみるべし。 | ||
<span id="no8"></span> | <span id="no8"></span> | ||
− | + | 【8】<br> | |
+ | 「[[乃至十念…|乃至十念 若不生者 不取正覚]]」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もし<span id="P--716"></span>わがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。 | ||
<span id="no9"></span> | <span id="no9"></span> | ||
− | + | 【9】<br> | |
+ | 「[[非権非実]]」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。 | ||
<span id="no10"></span> | <span id="no10"></span> | ||
− | + | 【10】<br> | |
+ | 「[[汝若不能念]]」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、[[不浄説法]]のもの、[[やまふ]]のくるしみにとぢられて、こころに弥陀を[[念じ]]たてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「[[応称無量寿仏]]」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。 | ||
<span id="no11"></span> | <span id="no11"></span> | ||
− | + | 【11】<br> | |
+ | 「[[具足十念…|具足十念]] 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、[[十八十億劫]]の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもき<span id="P--717"></span>ほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「[[若我成仏…|若我成仏]] 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」([[往生礼讃 (七祖)#P--654|礼讃 七一一]])と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。 | ||
この文どものこころは、おもふほどは申さず、[[よからんひと]]にたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。 | この文どものこころは、おもふほどは申さず、[[よからんひと]]にたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。 | ||
− | + | ;南無阿弥陀仏 | |
+ | |||
+ | :[[ゐなかの]]ひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。<span id="P--718"></span> | ||
− | + | :[[[康元二歳]]正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。] | |
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2012年11月13日 (火) 15:52時点における版
聖人が『唯信鈔』を尊重され、また、門弟にしばしばこれを熟読することを勧められていることは、消息の記事や数回にわたる写伝の事実などから知られるところであるが、『唯信鈔』に引文される経釈の文について、聖覚法印は詳細な解釈は施されていない。本書は巻末の文からもうかがえるように、この『唯信鈔』の要文を解釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されるとともに、「極楽無為涅槃界」の釈に見られるような深遠な釈を施して、浄土真宗の法義をより明らかにされたものである。
唯信鈔文意
唯信鈔文意
【1】
「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。
【2】
- 「如来尊号甚分明 十方世界普流行
- 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。しかれば大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば観音・勢至はかならずかげのかたちにそへるがごとくなり。この無碍光仏は観音とあらはれ勢至としめす。ある経には、観音を宝応声菩薩となづけて日天子としめす、これは無明の黒闇をはらはしむ、勢至を宝吉祥菩薩となづけて月天子とあらはる、生死の長夜を照らして智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。
また「自」はおのづからといふ、おのづからといふは自然といふ、自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一切の功徳善根を仏のちかひを信ずる人に得しむるがゆゑにしからしむといふ。
はじめてはからはざれば自然といふなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひにあらず、金剛の信心をうるゆゑに憶念自然なるなり。この信心のおこることも釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。
「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
また「来」はかへるといふ、かへるといふは、願海に入りぬるによりてかならず大涅槃にいたるを法性のみやこへかへると申すなり。法性のみやこといふは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真如実相を証すとも申す、無為法身ともいふ、滅度に至るともいふ、法性の常楽を証すとも申すなり。
このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りてよろづの有情をたすくるを普賢の徳に帰せしむと申す。この利益におもむくを「来」といふ、これを法性のみやこへかへると申すなり。
「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこころなり。選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。
この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり、これを「迎」といふなり。『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。
「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。
おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。
『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは申さず、これにておしはからせたまふべし。
この文は、後善導法照禅師と申す聖人の御釈なり、この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまへり。また『伝』には廬山の弥陀和尚とも申す、浄業和尚とも申す。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆゑに後善導と申すなり。
【3】
- 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
- 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
- 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
- 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀仏なり。「因中」は法蔵菩薩と申ししときなり。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ、「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ、「誓」はちかひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと申すなり。
超世は余の仏の御ちかひにすぐれたまへりとなり。超は、こえたりといふは、うへなしと申すなり。如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくはしくあらはれたり。
「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。
「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふこころなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり。「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかへ率てきたらしめ、かへらしむといふ。法性のみやこより衆生利益のためにこの娑婆界にきたるゆゑに、「来」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへるといふなり。
「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。
「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。
「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。
「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率て、かへらしむといへるなり。
「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。
「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、「瓦」はかはらといふ、「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。文のこころはおもふほどは申しあらはし候はねども、あらあら申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。この文は、慈愍三蔵と申す聖人の御釈なり。震旦(中国)には恵日三蔵と申すなり。
【4】
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。[1]法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。
「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。
【5】
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃 六五四)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
【6】
「不得外現賢善精進之相」(散善義 四五五)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。
【7】
「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といふは、もろもろの戒をやぶり、罪ふかきひとをきらはずとなり。このやうは、はじめにあらはせり。よくよくみるべし。
【8】
「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。
【9】
「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。
【10】
「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
【11】
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。
この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。
- 南無阿弥陀仏
- ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。
- [康元二歳正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。]
- ↑ 仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす