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[[御開山]]は「小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり」([[行巻#P--189|行巻 P.189]]) と聖道門を「八万四千の仮門」とされていた。そして八万四千の法門の{{DotUL|余}}に「[[誓願一仏乗]]」の[[浄土門]]があることを[[領解]]できない[[聖道門]]の者に対して『涅槃経』の「聞不具足」の文をを引文し、'''「余」'''である[[浄土門]]を知らないことを「[[聞不具足]]」とされる意もあったのであろう。それはまた本願成就文の、
 
[[御開山]]は「小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり」([[行巻#P--189|行巻 P.189]]) と聖道門を「八万四千の仮門」とされていた。そして八万四千の法門の{{DotUL|余}}に「[[誓願一仏乗]]」の[[浄土門]]があることを[[領解]]できない[[聖道門]]の者に対して『涅槃経』の「聞不具足」の文をを引文し、'''「余」'''である[[浄土門]]を知らないことを「[[聞不具足]]」とされる意もあったのであろう。それはまた本願成就文の、
 
:「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 [[乃至一念]] (あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん)」([[信巻末#no61|信巻 P.250]])
 
:「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 [[乃至一念]] (あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん)」([[信巻末#no61|信巻 P.250]])
の「[[聞]]」である「[[誓願一仏乗]]」の[[法義]]をを助顕とされる意であった。
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の「[[聞]]」である「[[誓願一仏乗]]」の[[法義]]を助顕とされる意であった。
  
 
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2024年9月12日 (木) 16:53時点における最新版

もんふぐそく

 如来の教法の半ばを聞いているが、全体を聞いていないもの、すなわち如来の教法を如実に聞信していないことをいう。また名利(みょうり)のためにのみ経典を読誦(どくじゅ)することをいう。(信巻 P.246,信巻 P.250)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

もんふぐそく 聞不具足

 仏の教法の半ばを聞いているが、全体を聞いていないこと。すなわち仏の教法を如実に聞信していないことをいう。また名利のためにのみ経典を読誦することをいう。『涅槃経』(化身土巻引文・註 408) に説かれる。(浄土真宗辞典)

『涅槃経』(迦葉品*)にのたまはく、「いかなるをか名づけて不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説すれば、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。{以上}(信巻 P.250)

御開山は「小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり」(行巻 P.189) と聖道門を「八万四千の仮門」とされていた。そして八万四千の法門のに「誓願一仏乗」の浄土門があることを領解できない聖道門の者に対して『涅槃経』の「聞不具足」の文をを引文し、「余」である浄土門を知らないことを「聞不具足」とされる意もあったのであろう。それはまた本願成就文の、

「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 (あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん)」(信巻 P.250)

の「」である「誓願一仏乗」の法義を助顕とされる意であった。

信不具足
誓願一仏乗
八万四千の法門
聞即信
聞見