「聞見」の版間の差分
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− | 自らの眼で見て明らかに認知することを<kana>眼見(げんけん)</kana>、聞いて理解し<kana>[[信知]](しんち)</kana>することを'''<kana>聞見(もんけん)</kana>'''という。見は知るといふ意。見解を定めること。 →[[見]]<br> | + | 自らの眼で見て明らかに認知することを<kana>[[眼見]](げんけん)</kana>、聞いて理解し<kana>[[信知]](しんち)</kana>することを'''<kana>聞見(もんけん)</kana>'''という。見は知るといふ意。見解を定めること。 →[[見]]<br> |
− | + | 「真巻」で引文される『涅槃経』に、 | |
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− | : | + | :善男子、見に二種あり。一つには[[眼見]]、二つには[[聞見]]なり。 |
− | : | + | :諸仏世尊は眼に[[仏性]]を見そなはす、<kana>掌(たなごころ)</kana>のうちにおいて[[阿摩勒菓]]を観ずるがごとし。[[十住の菩薩]]、[[仏性]]を聞見すれども、ことさらに[[了々]]ならず。[[十住の菩薩]]、ただよくみづからさだめて[[阿耨多羅三藐三菩提]]を得ることを知りて、一切衆生はことごとく[[仏性]]ありと知ることあたはず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。[[十住の菩薩]]は、仏性を眼見し、また聞見することあり。{{DotUL|一切衆生乃至九地までに、[[仏性]]を[[聞見]]す}}。[[菩薩]]、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉。([[真巻#P--356|真巻 P.356]]) |
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と「見に二種あり。一つには眼見、二つには'''聞見'''なり。」とあり、諸仏は一切衆生の<kana>[[仏性]](ぶっしょう)</kana>を、手のひらの上にのせた<kana>[[阿摩勒菓]](あまろくか)</kana>(アーマラカ)を見るようにはっきりと知ることができる。しかしすべての衆生は、第九地の菩薩にいたるまで(涅槃経では十住は十地とする)、仏の教法を聞くことで「'''[[仏性]]'''」(仏に成ること)を知ることができるので'''聞見'''(聞いて知る)という。<br /> | と「見に二種あり。一つには眼見、二つには'''聞見'''なり。」とあり、諸仏は一切衆生の<kana>[[仏性]](ぶっしょう)</kana>を、手のひらの上にのせた<kana>[[阿摩勒菓]](あまろくか)</kana>(アーマラカ)を見るようにはっきりと知ることができる。しかしすべての衆生は、第九地の菩薩にいたるまで(涅槃経では十住は十地とする)、仏の教法を聞くことで「'''[[仏性]]'''」(仏に成ること)を知ることができるので'''聞見'''(聞いて知る)という。<br /> | ||
「'''[[聞]]'''といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを'''[[聞]]'''といふなり」([[信巻末#P--251|信巻 P.251]]) の[[聞見]]である。→[[仏願の生起本末]] | 「'''[[聞]]'''といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを'''[[聞]]'''といふなり」([[信巻末#P--251|信巻 P.251]]) の[[聞見]]である。→[[仏願の生起本末]] | ||
− | [[浄土真宗]]では、この'''聞'''によって自らの「'''[[仏性]]''' | + | [[浄土真宗]]では、この'''聞'''によって自らの「'''[[仏性]]'''」(因仏性)を[[信知]](信じ知ること)することを<kana>[[信心仏性]](しんじんぶっしょう)</kana>という。<br> |
− | 「<kana>[[聞]](もん)</kana>」とは、阿弥陀仏の救いの法である十方の諸仏が讃嘆する「[[誓願一仏乗]]」の名号を、衆生が自ら称えて聞くことを「[[聞]]」という。元来、[[第十七願]]は、阿弥陀如来が、諸仏をして我が名を称えさせよう、我が名号による救いを諸仏の[[咨嗟]] | + | 「<kana>[[聞]](もん)</kana>」とは、阿弥陀仏の救いの法である十方の諸仏が讃嘆する「[[誓願一仏乗]]」の名号を、衆生が自ら称えて聞くことを「[[聞]]」という。元来、[[第十七願]]は、阿弥陀如来が、諸仏をして我が名を称えさせよう、我が名号による救いを諸仏の[[咨嗟]]によって衆生に知らしめようという仏の行である。[[声聞]]や[[縁覚]]、[[菩薩]]の行ですらない、仏の行を顕わす願が'''大悲の願'''より出でた[[第十七願]]である。([[行巻#P--141|行巻 P.141]])<br> |
− | + | この仏の作(な)す仏の行([[仏作仏行]])を、衆生の行を顕わした願であるとされたのが御開山であった。[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」が称名である根拠を『観経』の下品下生の「具足十念 称南無阿弥陀仏(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」([[観経#P--116|観経 P.116]]) ではなく真実経である『無量寿経』の教説に拠られたのである。御開山は『観経』の教説に[[隠顕]] (真実と方便) を見られたから、真実の経である『無量寿経』の[[第十七願]]に拠って称名を顕されたのである。<br> | |
『無量寿経』の[[第十七願]]には、 | 『無量寿経』の[[第十七願]]には、 | ||
:設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚。 | :設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚。 | ||
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この'''諸仏の行'''である、なんまんだぶを称えて聞くということは、あらゆる[[煩悩]]の寂滅した阿弥陀仏のさとりの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。『無量寿経』の本願成就文には、 | この'''諸仏の行'''である、なんまんだぶを称えて聞くということは、あらゆる[[煩悩]]の寂滅した阿弥陀仏のさとりの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。『無量寿経』の本願成就文には、 | ||
:諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。 | :諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。 | ||
− | ::あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。([[大経下#P--41|大経 P.41]]) | + | ::あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。([[大経下#P--41|大経 P.41]])4 |
とある。<br> | とある。<br> | ||
浄土真宗では、<kana>称即信(しょうそくしん)</kana>(名号を称えること即信心)とか、<kana>[[聞即信]](もんそくしん)</kana>(聞くことは即信心)などといい、<kana>[[聴聞]](ちょうもん)</kana>という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめるのは、阿弥陀仏の本願の<kana>生起(しょうき)</kana>(願いを起こされたわけ)とその躍動している救済のはたらき(本末)を<kana>聞信(もんしん)</kana>することを最も重要とするからである。<br> | 浄土真宗では、<kana>称即信(しょうそくしん)</kana>(名号を称えること即信心)とか、<kana>[[聞即信]](もんそくしん)</kana>(聞くことは即信心)などといい、<kana>[[聴聞]](ちょうもん)</kana>という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめるのは、阿弥陀仏の本願の<kana>生起(しょうき)</kana>(願いを起こされたわけ)とその躍動している救済のはたらき(本末)を<kana>聞信(もんしん)</kana>することを最も重要とするからである。<br> | ||
親鸞聖人はこのような'''「[[聞]]」'''である信を | 親鸞聖人はこのような'''「[[聞]]」'''である信を | ||
:「聞といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也)。言信心者 則本願力廻向之信心也。」([[信巻末#no65|信巻 P.251]]) | :「聞といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也)。言信心者 則本願力廻向之信心也。」([[信巻末#no65|信巻 P.251]]) | ||
− | と解釈され、〈聞〉によって〈信〉( | + | と解釈され、〈聞〉によって〈信〉([[無疑心]])をあらわされるのである。これが浄土真宗の'''[[聞]]'''である'''[[信]]'''であるから、本願力回向の[[行信]]というのであった。 |
+ | :→[[道は色像…知んぬべし]] | ||
:→[[見]] | :→[[見]] | ||
:→[[聞]] | :→[[聞]] |
2024年9月21日 (土) 11:36時点における最新版
もんけん
眼見に対する語。聞知(聞いて知ること)。
自らの眼で見て明らかに認知することを
「真巻」で引文される『涅槃経』に、
と「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」とあり、諸仏は一切衆生の
「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」(信巻 P.251) の聞見である。→仏願の生起本末
浄土真宗では、この聞によって自らの「仏性」(因仏性)を信知(信じ知ること)することを
「
この仏の作(な)す仏の行(仏作仏行)を、衆生の行を顕わした願であるとされたのが御開山であった。第十八願の「乃至十念」が称名である根拠を『観経』の下品下生の「具足十念 称南無阿弥陀仏(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」(観経 P.116) ではなく真実経である『無量寿経』の教説に拠られたのである。御開山は『観経』の教説に隠顕 (真実と方便) を見られたから、真実の経である『無量寿経』の第十七願に拠って称名を顕されたのである。
『無量寿経』の第十七願には、
- 設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚。
- たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(大経 P.18)
とあり、前述したように「十方世界 無量諸仏」に誓われた願である。それをあえて「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と、大行とされたところに御開山の発揮があるのである。御開山が比叡山時代に学んだ『摩訶止観』でも大行を説く。しかし、それはあくまで人間の行であった。そのような行と全く次元が違う諸仏の行と同じ行が、なんまんだぶを称え聞くという大行であった。
このような発想は、法然聖人の『三部経大意』(*)や聖覚法院の『唯信鈔』(唯信鈔 P.1340)
に於ける第十七願観によるのである。この第十七願観を本願力回向という『論註』の概念で包み込み『論註』讃歎門の、
- 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。(論註 P.103)
の指示によって、
- 「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり(大行者 則称無礙光如来名)。」(行巻 P.141)
と「大行」を定義されたのであった
この諸仏の行である、なんまんだぶを称えて聞くということは、あらゆる煩悩の寂滅した阿弥陀仏のさとりの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。『無量寿経』の本願成就文には、
- 諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。(大経 P.41)4
とある。
浄土真宗では、
親鸞聖人はこのような「聞」である信を
- 「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也)。言信心者 則本願力廻向之信心也。」(信巻 P.251)
と解釈され、〈聞〉によって〈信〉(無疑心)をあらわされるのである。これが浄土真宗の聞である信であるから、本願力回向の行信というのであった。