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道は色像…知んぬべし

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どうはしきぞう…しんぬべし

 通常は「色像のみるべく、称量して知るべきなしといへども」と読む。(真巻 P.345)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ここでの「」とは仏の覚りの意。

『涅槃経』の原文

道者雖無色像可見 稱量可知 而實有用。
道は色像のみるべく、称量して知るべきなしといへaども、しかも実に用あり。

と読んで、(仏の覚り)というものは、色や形でもって見る事も出来ないし、それを量り知る事も出来ないけれども、それは素晴らしい用(はたら)きを持っている、という意になる。

御開山の読み

道者雖無色像可見 稱量可知。而實有用。
道は色像なしといへども見つべし、称量して知んぬべし、しかるに実に用あり。

と読まれて意味を転じておられる。は色形がなくても見ることができ、はかり知ることができる用(はたらき)があるとされる。
ここでの「色像なしといへども見つべし」とある「見」は、知るという意味聞見のことを指すといわれている。色形の無いものを知るという知り方は、眼で見て知る(眼見)のではなく、聞いて知ることをいう。(真如法性、仏性)は、色も形もないけれども、聞いて知る(見つべし)とされ、聞いて、称量(涅槃の徳に(かな)って)して知んぬべしと転意されておられるのであった。御開山は聞の人であった。聞見についての詳細は、後の引文の獅子吼品に出しておられる。

仏願の生起本末
聞見
聴聞