善導
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ぜんどう (613-681)
中国浄土教の大成者。
諸方を遍歴し、
その後、終南山悟真寺、長安の光明寺に移って念仏
著書は他に『
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 新纂浄土宗大辞典から転送
ぜんどう/善導
大業九年(六一三)—永隆二年(六八一)。光明大師。浄土五祖の第三。中国唐代初期に活躍した阿弥陀仏信仰者で、日本の法然および法然以後の浄土教に絶大な影響を与えた人物。法然は主著『選択集』において善導のことを阿弥陀仏の化身とまで評している。
[伝記]
善導に関する伝記は多種多様であるが、『新修往生浄土伝』所収の善導伝によると、善導は大業九年(六一三)から永隆二年(六八一)、六九年の人生であったと伝えられる。出生地については諸説があり、また最初に誰について出家し、そしてどのような修学をしたかということも、一切明らかではない。出家後、長安に入る前に道綽のもとを訪れ、阿弥陀仏の浄土に関する教えや念仏の具体的な実践方法について修学した。道宣が善導在世中に編纂した『続高僧伝』によれば、善導は三七歳頃には長安に入った。なお『続高僧伝』に記載されている善導伝は、善導が著名であったことというより、善導の言動が道宣の眼には奇異に見えたことに起因する。その後、善導は寺院を転々としながら執筆活動を続けるとともに、長安の中で広く人々に浄土の教えを伝えていく。晩年の善導は朝廷から龍門石窟の大盧舎那仏建設の検校という、一大国家事業の総監督役を与えられる。このことは咸亨三年(六七二)から調露二年(六八〇)までの記事を記載する「河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記」から確認することができる。この大役は善導が道宣『続高僧伝』に紹介されてから二十数年後のことであり、この間、善導は積極的に浄土の教えを弘め、その名が長安内で知れ渡っていったものと思われる。また善導の著作活動も恐らくは咸亨三年にはほぼ終了していたと考えられる。善導がどこで最晩年を過ごし、またどのような臨終を迎えたかは明らかではない。ただし永隆二年に善導が大慈恩寺にいたということを示す石碑の名のみが伝えられていることから、大盧舎那仏像建設後の善導は朝廷から手厚い庇護を受け大慈恩寺で入寂した可能性も考えられる。このように善導の伝記は詳細な点は明らかではないが、内面においては常に自らを厳しく律し、優れた宗教体験を持つ念仏実践者であり、外に対しては「念仏で必ず往生することができる」という浄土の教えを説き広めた生涯であった。
[著作]
善導には通称「五部九巻」といわれる著作が現存している。まず主著ともいうべき著作は『観経疏』四巻である。本書は第一巻(「玄義分」)で自らの立場と理解を明示した上で、第二(「序分義」)・第三(「定善義」)・第四巻(「散善義」)で『観経』経文を区切りながら解説を行っている。第一巻の内容はまさに善導の浄土教理解のエッセンスであり、第二巻以降は第一巻の内容を前提とした上で従来とは大きく異なった『観経』理解を示している。『観念法門』には、念仏を実践する際の具体的な方法と、念仏実践の効果(五種増上縁義)が説かれている。『往生礼讃』と『法事讃』と『般舟讃』は、阿弥陀仏を中心として出家者と在家者が共に極楽世界への往生を願いつつ、阿弥陀仏や極楽世界の情景を緩やかな旋律で歌うための歌詞で構成されている。浄土教に関する儀礼の著作はいくつか前例があるが、善導はこれら前例の作品の歌詞を入れつつも独自の宗教観を巧みに歌詞として表現し、非常に分かりやすい文章で極楽世界の様子が容易に想像できるように工夫している。このように教義書と儀礼書を並行して撰述している点は天台智顗や三階教の信行と共通し、善導の著作は特に三階教の信行との関係が深いものと考えられる。
[教義]
善導は『観経疏』の末尾で「私は今こそこの『観経』の教えの枢要を書き出し、従来、そして現在の『観経』理解のすべてを改める(某今欲出此観経要義楷定古今)」(聖典二・三二五/浄全二・七二上)と言い、自説こそが最も正しい『観経』理解であるとともに、『観経』の経旨であることを主張しているように、従来の『観経』理解とは大きく異なった解釈を提示している。まず特筆すべきはその衆生論である。如来蔵的解釈や阿頼耶識的解釈が強かった時代にあって、善導は一切の衆生における現生での成仏の可能性を否定し、一切衆生が菩薩の実践階位上にすら存在し得ない凡夫であることを主張した。その上で、凡夫が輪廻から解脱する唯一の方法は阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の本願のままに称名念仏一行を実践することであり、それによって、いかなる罪を犯そうとも必ず阿弥陀仏が自ら来迎し、極楽世界へと往生することができると主張している。善導はこの本願を成就した阿弥陀仏のことを報身と規定し、また極楽世界を報土として規定し、凡夫が称名念仏一行の実践によって報土に往生することができると判じたのである。また善導当時、玄奘やその門下などによって「下品の凡夫が実践する臨終時の十念においては、化土にこそ往生可能であるが、報土への直接の往生は不可能であり、別時意として理解することしかできない」という念仏往生別時意説が提唱されていたが、善導はこれらの所説に対して全面的に反論を提示しており、「阿弥陀仏の浄土へと往生を願い、阿弥陀仏の名号を称する一切の凡夫は、阿弥陀仏の本願のままに、かつ阿弥陀仏の本願を根拠とするが故に、阿弥陀仏の救済を直接に受け、阿弥陀仏が自らの意志において建立した報土である極楽浄土に往生することができる」と主張している。玄奘らの立場には阿弥陀仏の存在はあくまでも浄土建立者であって、衆生救済者としての性格は希薄である。それゆえ阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生は阿弥陀仏の浄土の高位性と自らの宗教的実践能力とが余りにも乖離するために、どうしても別時意説を介在させる必要が生じる。すなわち阿弥陀仏の存在を、浄土中心に理解しようとしているのである。一方、善導の場合は、あくまでも自らの意志において一切衆生の救済を自己の存在の目的とする仏身として阿弥陀仏を捉え、その上で浄土の存在も衆生救済の場所として生成することとなる。つまり阿弥陀仏を仏身から考え、仏身から仏土を規定しているのである。このように善導所説の阿弥陀仏信仰は当時の仏教理解でも極めて強い独自性を有するとともに、この独自性こそが法然が善導に大きく傾倒した理由であったと考えられる。法然は、この善導の流れをくむ念仏(善導流)を、中国浄土教の三流の一つに位置付けている(『選択集』一、聖典三・一〇三)。
【参考】柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)、同『善導教学の研究』二(同、二〇一四)、大原性実『善導教学の研究』(永田文昌堂、一九七四)、大正大学浄土学研究会『善導大師とその時代』(大東出版社、一九七九)、藤堂恭俊編『善導大師研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、佛教大学善導大師研究会『善導教学の研究』(東洋文化出版、一九八〇)
【執筆者:柴田泰山】