いんが
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(因果から転送)因果
物事が起る原因となるものを因といい、それによって引き起こされた結果を果という。
ただし、仏教では、物事がおこる原因には果を生じさせる直接原因である因と、因を助成する間接原因である縁があるとし、因果という時の因は、因と縁を含めているのである。
この因(因縁)と果を合わせて因果という。因縁果の略称。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山は、天親菩薩の『浄土論』にある本願力回向という語によって、本願力による成仏法をあかされた。曇鸞大師はこの本願力を『浄土論註』に「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」と他力(仏願力)による済度を示された。御開山は、この本願力による因果を「正信念仏偈」で「報土の因果」として示された。
- 天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
- 天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
- 天親菩薩の『浄土論』に註釈を加え、往生の因も果も誓願によって成就すると顕された。
- 天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
- 往還回向由他力 正定之因唯信心
と、浄土教の往生報土の因果を、「報土因果顕誓願」と示され、それは阿弥陀仏の誓願の因果に拠るのだとされた[1]。この世でさとりを開く仏教(此土入聖)と、浄土に往生して「往還回向由他力」のさとりを開く仏教(彼土得証)の綱格の違いは、当然に別の因果関係に基づくのであった。 「自業自得」の因果による救済論と、「大悲必然」としての仏因仏果の救済論の綱格の違いである。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:因果
いんが/因果
原因ⓈⓅhetuと結果ⓈⓅphalaを表す合成語。この合成語は一般には因と果の併称であるが、実際の解釈には、サーンキヤ哲学で説かれる、因の中にもともと果は内在していて後に出現するという「因中有果論」や、ヴァイシェーシカ哲学のように原因の中に結果がないとする「因中無果論」などがあり、それらに対応して理解される。仏教はもともと事物そのものを法(ダルマⓈdharmaⓅdhamma)と呼び、ダルマを事物にひそむ永遠不滅の根本的な本体(我)ではなく、縁って起こった(縁起した)というプロセスの結果あるべき姿としてあるがままに捉える(諸法無我)。したがって現実把握と苦からの解放のために、縁起した結果である事物の原因が問われるが、アビダルマでは因を直接的な原因、縁を間接的な原因(条件)として、六因・四縁・五果などといった分析が進んだ。また縁起の理解とともに、種から花が咲くような因果異時(時間的因果)、教室の中で先生と生徒が相互にその立場をつくりあうような因果同時(空間的因果)の二つの解釈がなされたが、修道的には業報輪廻説と結びつく時間的因果の方が重要になる。善因楽果・悪因苦果という因果応報の思想はそもそもバラモン教によってもたらされたが、それは現世の道徳・倫理を高め、人間の行為を規定するはたらきをもつ。仏教も徐々に輪廻思想を教義内に取り入れ、幾多の輪廻転生を経て悟りを得るという宗教へと展開した。鸚鵡経類とよばれる一連の経典では、因としての善悪の行為とその結果としての果報を具体的に述べるにいたる。また大乗仏教では、現世で涅槃を得た釈尊の過去世の善行を模範とする行動が菩薩道として修行体系の中核をなすようになったために、過去から現在にいたる因果関係が現在から未来にいたる因果関係に時間移動され、われわれが未来に得る果のために現在の因なる行動が重要視される。すなわち、修行という因によって悟りという果を得ることになる。これを酬因感果(修因得果、修因感果)といい、浄土教では特に、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときの修行に酬いて仏となったことをいう。
【執筆者:吹田隆道】
「隠/顕」
以下、一般の因果論を示す。
因果 (いんが)
- ① 原因と結果のこと。結果を生じさせるものが因で、その因によって生じたものが果である。時間的な因果関係では、因は時間的に前にあり果は後にあるから、これを因果異時という。しかし束ねた蘆(束蘆)が相互によりかかって立つような場合も広い意味での因果関係で、このような空間的因果関係では因果同時である。唯識派では、種子から種子を生ずる関係は因果異時で、種子から現行[2]を生じ、現行によって種子を薫ずる関係は因果同時であるとする。六因・五果の中では、異塾因と異熟果との関係、および同類因・遍行因と等流果との間の関係はいずれも因果異時で、倶有因・相応因と士用果との間の関係は因果同時であり、能作因と増上果との間の関係はその両方に通ずる(→因 →果)。また同類因と等流果との間の関係は、前時の自己が因となって後時の自己を生ずる関係であるから、これを自類因果という。
- ② われわれの行為(業)について異時の因果を立てるとき、善の業因には必ず善の果報があり、悪の業因には必ず悪の果報がある。これを善因善果・悪因悪果というが厳密には善因楽果・悪因苦果というべきである。善なる業を因として善なる業を生じて、善業が相続して行く場合もあるが、これがまさに善因善果である。[3]
- 善悪の業因があれば、必ずそれに相応した楽苦の果が報い、因果の理が厳然として乱れることのないのを因果応報といい、因果の理を無視して認めず邪見に陥ることを因果を撥無するという。
- ③ 因果の関係を実践修道の上にあてはめると、修行の因によってさとりの果を得ることになるから、これを修因感果、酬因感果という。「感」とは果を招くことである。
- ④ すべての外道の説を四種に分類して外道四執または四執という。即ち、邪因邪果は万物生起の原因を大自在天の能力に帰するもの。無因有果は、現在の現象世界を果として認め、その果についての因はついに求めがたいと否定するもの、有因無果は、現在の現象的世界を因として認め、その因に対する果はついに求めがたいと否定するもの。無因無果は、その両方を否定して因果を撥無するもの。
- また別に二類に分ける。因中有果論は、バラモン教およぶ数論[派]の唱えた説で、果として現れる現象世界は必ず因の中に内具しており、従って因と果は性質が等しいと見るもの。これに対して因中無果論は、バラモン教に対するいわゆる一般思想界、および勝論[派]の唱えた説で、独立した多くの根本要素(即ち因)が結合して現生世界(即ち果)ができていると見るから、因と果は性質が不等であり、因の中に果はないとする。あるいはむしろ果中有因論といってもよい。
- ⑤ 善悪の業因によって楽苦の果報を招くことを表す異熟因・異熟果と、その中で特に福徳(世間的な善悪)によって人天の楽果を招く福因・福果と、智慧を修習してさとりの果を招く智因・智果との三種の因果関係を、三因三果という。(仏教学辞典)
- ↑ 報土(ほうど)。天親菩薩、曇鸞大師には「報土」という語はない。しかし『論註』の「三願的証」(論註 P.155)の意などから義として「報土」を曇鸞大師の釈功とされたのであろう。「報土」という名目は道綽禅師の『安楽集』「三身三土」にある。(安楽集 P.191) なお浄土三部経にも「報土」という語はない。仏身論の展開とその受容の時期が影響しているのであろう。→阿弥陀仏の清浄報土なり
- ↑ 唯識説によると、人間の心の根底をなす普遍的な本識である阿頼耶識には、この世の一切のものを生じる原因としての種子 (しゅうじ) が蔵されているが、この種子より生じた事象を現行といい、その現象を種子生現行という。生じた現行が必ず新しい種子を阿頼耶識のうえに付加することを現行熏種子という。 →(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
- ↑ 正しい仏教の因果論では、単純に原因があって結果が生じるというのではなく、その間に「縁」というものがある。種があって芽が出るというが、そもそも発芽条件という「縁」がなければ種から芽は出ない。種が播かれた土や適度な水や空気という、縁によって種は芽となるのである。個人が、生来的に酒乱という悪因(業)を持っていても生涯酒の味を知らなければ酒乱という果(現象)は生じないようなものである。
ましてや、悪因悪果というように、悪が因となって悪が生じるのであれば、悪を行うものは永遠に悪を行い続けることになり、悪を転じて善となすということは無くなってしまう。善因善果という表現もまた、善を行うものは永遠に善を行うということになってしまう。これでは仏教で排斥する決定論であり運命論に陥ってしまう。仏教では、このような過ちを犯さないために、善や悪の行為は因であって果ではないとする。因・縁・果によって成立する果は、苦または楽であって善でも悪でもない「無記」であるというのである。
パーリ語のダンマパタ(真理の言葉)には、- 67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
- 68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。