信心正因
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しんじん-しょういん
唯信正因ともいい、唯信独達[1]をあらわす。 浄土真宗における往生成仏の正しき因は信心一つであるということ。 『正信偈』に、
- 正定の因はただ信心なり。 (行巻 P.206)
「信巻」に、
- 涅槃の真因はただ信心をもつてす。(信巻 P.229)
『正像末和讃』に、
- 不思議の仏智を信ずるを
- 報土の因としたまへり
- 信心の正因うることは
- かたきがなかになほかたし (正像 P.608)
信楽釈に、
とあるように信心とは如来の大悲心である。
「正因」とは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわす。この決定する時剋の一念を「信の一念」といふ。衆生を往生成仏せしめる大悲の名号法はすでに成就されているのだが、これをわたくしが正定業 (正しく衆生の往生が決定する業因) として信受しなければ往生は決定しない。名号(なんまんだぶ)を信受することによって、わたくしの上に往生成仏の果を得べき業因が決定する。これを信心正因というのである。それは阿弥陀仏の衆生済度の菩提心であり、願作仏心(仏にな〔作〕ろうと願わしめれる心)であった。→安心論題/信心正因
信は阿弥陀仏から信受するものであるから「信巻」には出体釈がない。この意を稲城選恵和上は、水と波の関係に譬えておられた。水(名号:行)があるから波(信心)が立つのであり、水のない波はありえない。水があるから波が起こるのであって水(名号)のない単独の波(信心)というものはあり得ないのである。その意から御開山の示された信には出体(ものがら)がないのであった。→(教・行・信・証の出体)、→(他力の信の特色)
それはまた浄土真宗の信心とは煩悩の手垢のつかない、たまわりたる清浄な仏心であったからである。仏心であるような信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物ではないのである。その意を先人は「信は仏辺に仰ぐ」とか→仰信と表現したのであった。