約束
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やくそく
「約束」とは「〔束〕を結んでまとめる〔約〕」というのが本来の意である。ここから、「自己の行為をまとめ他者に言明し、その実現が確実である」という意味に使われる。浄土真宗での約束という表現は、法蔵菩薩と師仏である世自在王如来との関係を指す語であり、それを本願とも誓願ともいふ。「誓」とあるのだが現代語でいう「人と人のお互いに、取り決めを行うこと」という意味ではないので注意すること。いわば我々は、法蔵菩薩に背負われ、法蔵菩薩が師仏である世自在王仏の前にひざまずいて、この子を必ず浄土に往生させて仏にします、という誓願(御約束)を因位の阿弥陀仏に背負われながら聞くことをいふのであった。御開山は、この因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)の御約束(誓願)がすでに成就したことを「仏願の生起本末」を聞信せよと言われたのであった。悲智不ニの仏身が法蔵から弥陀へという相(すがた)の示現が「仏願の生起本末」であった。
この意を御消息では、
- 『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 (消息 P.807)
と、仏と仏との御約束であるから、衆生にとって名号は「善にあらず行にあらざるなり」(非行非善)と衆生の自力(はからい)を否定する意味とされていた。漢文の御著書では約束という表現はないのだが、本願ということを、大衆に、より平易に判りやすく説明するために和語の御消息などでは本願を約束(誓願)という言葉で示されたのであろう。