大谷本願寺
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おおたにほんがんじ 大谷本願寺
吉水の北辺(現在の京都市東山区)にあった初期の本願寺のこと。鳥部野の北、大谷に納められていた親鸞の遺骨を、文永9年(1272)、吉水の北辺に改葬し、廟堂(現在の崇康院境内にあたる)を建て、親鸞の影像を安置したことに始まる。敷地は親鸞の末娘、覚信尼が寄進し、関東の門弟の承認をうけて、覚信尼の子孫が管理することになった。覚信尼の孫、覚如は廟堂の寺院化を図り、正和元年(1312)、専修寺の額を掲げたが[1]、その後本願寺と改称した。寛正6年(1465)、延暦寺の衆徒によって堂舎が破却(寛正の法難)されるまで、この地に本願寺の寺基があった。(浄土真宗辞典)
- ↑ 専修寺とは専修念仏を意味するので叡山関係から横やりが入り本願寺とした。
『常楽台主老衲一期記』(『浄土真宗聖典全書』第四巻「相伝篇上」p.1409)正和元年の項目。
廿三歲[正和元]、靑蓮院宮門跡三方{良助親王・尊圓親王・慈道親王}御相論。大上尤可宜之由被仰、訴諫事勞功異他。此時光玄爲光顯。
夏比、爲法智發起、被打額寺號專修寺。同人計申之。勘解由小路二位入道經尹卿{法名寂尹}書之。予申錦小路僧正誂之。秋比、山門事書到來。其旨趣、一向專修者往古所停廢也。而今專修號不可然。早可破却{云々}。- 夏ごろ、法智(安積(あさか)門徒)發起をなし、寺號專修寺の額を打たしむ。同人これを計い申す。勘解由小路二位の入道經尹卿{法名寂尹}これを書く。予(われ)錦小路の僧正に申してこれを誂(あつら)う。秋ごろ、山門より事書(ことがき)到來す。その旨趣、一向專修は往古より停廢するところなり。しかるに今、專修の號しかるべからず。早く破却すべしと{云々}。