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大信

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2020年1月10日 (金) 20:47時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

だいしん

 →補註11 (行巻 P.141, 信巻 P.211)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:真実信心

しんじつ-しんじん 真実信心

 阿弥陀仏より衆生に与えられた本願力回向信心。阿弥陀仏から回向された信心であるから大信ともいい一心ともいう。「信巻」には、

疑蓋 間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。(信巻 P.231)

とあり、信楽ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号を領受した心をいう。 これは大行である名号のはたらきが衆生にまさしく至り届いたすがたとされる。『唯信鈔文意』には

「選択不思議の本願、無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり」(唯文 P.702)

『歎異抄』第6条には

「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや」(歎異抄 P.835)

等とある。なお、親鸞は歓喜慶喜の語を真実信心の異称として用いることがある。『浄土和讃』には

「一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」(註 561)

『高僧和讃』には

「一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ」(註 585)

等とある。→三一問答大行歓喜(浄土真宗辞典)

信心
仰信

204,231,252,494,495,560,567,576,586,592,605,607,608,610,626,644,647,667,670,671,672,673,679,683,701,703,707,712,713,721,722,735,748,758,760,761,778,794,797,803,859,963,964,1027,1036,1037,1086,1088,1103,1114,1116,1150,1162,1171,1172,1178,1180,1202,1222,1244

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補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

11 大信(だいしん)真実信(しんじつしん)

 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは信楽(しんぎょう)ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願名号(みょうごう)を領受した心をいう。それは大行(だいぎょう)たる名号のはたらきが衆生(しゅじょう)(まさ)しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定(しょうじょう)の因となる」(信巻(しんかん)本 235) といわれている。これを信心正因(しょういん)という。すなわち如来回向(えこう)信心真如(しんにょ)にかない、無量の徳をもち、衆生を涅槃(ねはん)のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。

 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心信楽欲生(よくしょう)という三心(さんしん)が示されるが、天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『浄土論(じょうどろん)』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を()する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心欲生信楽一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願招喚(しょうかん)勅命(ちょくめい)(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを帰命(きみょう)ともいうのである。


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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