「般舟三昧」の版間の差分
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御開山は「無碍光如来の<kana>名(みな)</kana>を称する」[[顕浄土真実行文類#no1|(*)]]ことを明かす「行文類」で、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「入初地品」([[ノート:十住毘婆沙論_(七祖)#→行巻引文(13)|*]])を引いて | 御開山は「無碍光如来の<kana>名(みな)</kana>を称する」[[顕浄土真実行文類#no1|(*)]]ことを明かす「行文類」で、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「入初地品」([[ノート:十住毘婆沙論_(七祖)#→行巻引文(13)|*]])を引いて | ||
:〈[[般舟三昧]]および[[大悲]]を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず〉と。このなかに般舟三昧を'''父'''とす、また大悲を'''母'''とす。また次に般舟三昧はこれ'''父'''なり、無生法忍はこれ'''母'''なり。([[顕浄土真実行文類#no13|行巻 P.146]]) | :〈[[般舟三昧]]および[[大悲]]を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず〉と。このなかに般舟三昧を'''父'''とす、また大悲を'''母'''とす。また次に般舟三昧はこれ'''父'''なり、無生法忍はこれ'''母'''なり。([[顕浄土真実行文類#no13|行巻 P.146]]) |
2024年9月8日 (日) 13:00時点における版
はんじゅざんまい
梵語プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディ(pratyutpanna-buddha-saṃukhāvasthita-samādhi)の訳。諸仏現前三昧・仏立三昧ともいう。この三昧を得れば、十方の諸仏をまのあたりに見ることができるという。(行巻 P.146)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『選択本願念仏集』の「八選択」に、
- しかのみならず『般舟三昧経』のなかにまた一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀みづから説きて、「わが国に来生せんと欲はば、つねにわが名を念じて、休息せしむることなかれ」(意)とのたまへり。ゆゑに選択我名といふ。(選択集 P.1284)
と、阿弥陀仏自らが我が名を念ぜよ(選択我名)とある。
御開山は「無碍光如来の
と「般舟三昧」という語を出される。→仏説般舟三昧経
「般舟三昧」という語は、比叡山時代の御開山の修行を想起するに、口称の念仏(なんまんだぶ)と同値であろう。
この「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」という父と母の譬喩は、両重因縁の初重の因縁の、
から窺えば「般舟三昧」を「徳号の慈父」(なんまんだぶ)とし、「大悲」を「光明の悲母」とみておられたのであろう。
『般舟三昧経』の一巻本には、
- 仏言。菩薩於此間国土。念阿弥陀仏 専念故得見之。即問。持何法得生此国。
- 仏のたまはく、菩薩この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。 もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問いたてまつれ。いか なる法を持ちてかこの国に生ずることを得ると。
- 阿弥陀仏報言。欲来生者当念我名。莫有休息則得来生。
- 阿弥陀仏報(こた)へてのたまはく、 来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん。(仏説般舟三昧経)
と阿弥陀仏自身が「わが名を念ずべし」とあり、以下それを考察してみる。
善導大師は『観念法門』(P. 641) に『般舟三昧経』を取意して過去・現在・未来の諸仏は、みな念仏三昧を持ちて作仏を得と述べておられた。→三世諸仏念弥陀三昧成等正覚
法然聖人は『選択本願念仏集』の八選択の一として、
- しかのみならず『般舟三昧経』のなかにまた一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀みづから説きて、「わが国に来生せんと欲はば、つねにわが名を念じて、休息せしむることなかれ」(意)とのたまへり。ゆゑに選択我名といふ。(選択集 P.1284)
と、阿弥陀仏の選択として選択我名を挙げておられた。なんまんだぶを称えて阿弥陀仏の浄土へ往生することは阿弥陀仏の選択であった。→ノート:選択
御開山の奥様である恵信尼公のお手紙(『恵信尼消息』)によれば、法然聖人との邂逅を示して、
- 「殿(親鸞聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世の事いのりまうさせたまひける九十五日のあか月の御示現の文なり。」(恵信尼消息p.814)
とあり、御開山は比叡山におられた頃は堂僧であったとある。この堂僧とは、天台宗の祖である
シナ浄土教の嚆矢である廬山の慧遠は、念仏結社「白蓮社」を結び、般舟三昧による空観の完成を目指した。浄土経典による浄土への往生と違い、現世での般舟三昧の行に依って精神を集中し見仏を目指すのが廬山流念仏であった。いわゆる口称の念仏(可聞可称の、なんまんだぶ)ではなく、禅定(三昧)の語義であるサマーディ(samādhi)に入る念仏三昧の修行であった。御開山が比叡山の常行三昧堂で修行されたのも、諸仏現前三昧・仏立三昧を期する般舟三昧の行であった。仏を目の当たりに拝見することは、成仏を授記されることでもあった。
その、比叡山時代の御開山を、存覚上人は、その著『嘆徳文』で「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」(*)といわれている。自らの心を静かな水面のように穏やかにしようとつとめても煩悩の衝動の波がしきりに動いて心が安らかではなく、さとりの月が心に至っているということを観じても、迷いの暗雲がさとりの月を距ててしまうのである、というのである。
この常行三昧の見仏から聞仏へ移行されたのは法然聖人の門を叩かれてからであった。法然聖人からお聞きした言葉を『恵信尼消息』には、
- 「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば」(恵信尼 P.811)
とあり、生死を出(いず)る道を説く法然聖人の言葉を「仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめ」られたのであった。晩年の御開山の言行を記した唯円の『歎異抄』二条には、
- 「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」 (歎異抄 P.832)
とあり、法然聖人の「仰せをかぶり」た「如是我聞」の「聞」である「信」であった。
御開山は「聞」ということを強調されるのだが、祖師方の言葉を引文することに拠って『教行証文類』を著述されたのも、如是我聞(かくのごとく、われ聞けり)という「聞」の姿勢を貫いたからだと思ふ。いわゆる観仏という眼見から聞見へ転じられたのであった。
『無量寿経』の「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」の「聞」は、
- 「しかるに『経』に「聞」といふは、「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり(然経 言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。言信心者 則本願力廻向之信心也。)」(信巻 P.251)
の、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなしの聞であり信であった。
御開山は『一念多念証文』で、『往生礼讃』の「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」を釈して、
- 「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり」(一多 P.694)
と、なんまんだぶの名号は、称えて聞くものとされておられる。この名号を聞くものといわれるのは、法然聖人がところどころで「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」と述べておられる可聞可称の、なんまんだぶという声を聞くことが信であるというのである。→トーク:本願招喚の勅命
なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと聞こえる。この聞える阿弥陀仏の名号法が、浄土真宗の救いの法であり、「大経讃」の結論である、
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注
- ↑ 浄土真宗では唱と称では捉え方が異なるのだが『般舟三昧経』や『摩訶止観』では唱となっているので唱とした。