「覚如教学の特色」の版間の差分
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覚如教学の特色
- 五
法然中心主義から親鸞中心主義へ、念仏往生から信心往生へと教義の力点を変えていくということが覚如上人の教学の中核をなしていきます。いいかえれば念仏往生説から信心正因称名報恩説へと転換していくわけです。平生業成説が鎮西派などの臨終業成説に対する真宗の特色を顕示するものであるとすれば、信心正因称名報恩説は西山派や真宗内部の念仏往生説に対して、親鸞聖人の教義の綱要を明らかにするものであったといえるのではないでしょうか。
ところで平生業成という四字の熟語を本願寺系の方で一番最初にいったのは存覚上人です。存覚上人の『浄土真要鈔』本に、
- 親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。 (「同前」九六一——九六二頁)
といわれたものがそれです。『浄土真要鈔』は、元亨四年(一三二四)、存覚上人三十五歳のときの著作ですから、覚如上人が嘉暦元年(一三二六)に『執持鈔』を書かれる二年前のものです。ところでご存じのように、『浄土真要鈔』は、『浄土文類集』という書物を書き直したものです。『浄土文類集』は、仏光寺系に伝承されていたものですが、もう少しわかりやすく、そしてもっと詳しく書き換えてほしいと仏光寺 (当時は興正寺)が了源上人に頼まれて、存覚上人が書き換えられたのが『浄土真要鈔』なのです。実は存覚上人はその少し前の元享二年(一三二二)に父覚如上人から義絶を宣告され、大谷本願寺を退出し、翌年了源上人の山科興正寺 (仏光寺の前身)に身を寄せるわけです。その『浄土文類集』という書物は、「同朋学園仏教文化研究所紀要』第三号(二五八頁)に、「取意鈔出」という名前で紹介されている文献がそれです。それによれば、初めに「浄土文類集二日、取意鈔出」とあり、ついで「来迎ハ諸行往生ニアリ自 カノ行者ナルカユヘニ・・・・・・臨終マツコトナシ、来迎タノムコトナシ」という『末灯鈔』第一条の冒頭の部分の文を引きまして、臨終業成説に対して平生業成説を主張していきます。そこに「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル念仏往生ノ願ニマカセテ、他力ヲタノムへキナリ」といわれています。 この「一念ノ信心サタマレハ、平生ニ決定往生ノ業成就スル」というのは、明らかに念仏往生の本願を信ずる信の一念に往生の業事成弁し往生が決定するというのですから、明らかに平生業成を述べているわけです。それを『浄土真要鈔』は「平生業成」という四字の熟語で表したわけです。ですから平生業成とい う言葉は、『浄土文類集』から出たともいえるわけです。『浄土文類集』は一体誰の書であるかということですが、著者の名前は書かれていませんが、この書の後半部分に説かれている善知識論から見て麻布の了海上人ではないかと考えられます。それは了海上人の書きました『還相回向開書』や、『他力信心開書』と全く同じ文章が出てくるからです。ですから麻布の了海上人か、あるいはその弟子ぐらいのところで書かれたものと見ていいと思います。それゆえ仏光寺了源上人の元にあったわけです。『還相回向開書』や『他力信心開書』については、私が以前考察した「初期真宗における善知識論の一形態」(指著「浄土教学の諸問題」上巻所収)であるとか、「「他力信心開書」の一考察」(拙著『浄土教学の諸問題」上巻所収)など をご参照ください。
ともあれこの『浄土文類集』によって存覚上人は、はっきりと念仏往生の信心が決定する一念に平生業成を得るという信心正因説を立てられたわけです。さらに『浄土真要鈔』末にはそのことを詳しく講述して、
- かるがゆゑに聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二にいはく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」といへり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定に入る」といふは、正定聚に住し不退にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つねにその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。(「註釈版聖典】九七三一九七四頁)
といわれています。覚如上人が「正信偈」の龍樹菩薩章の文意によって確立される信心正因・称名報恩· 平生業成説と同じであるといえましょう。もっとも覚如上人がはっきりと信心正因・称名報恩という宗義 を明言されるのは、元弘元年(元徳三年、一三三一)の報恩講のときに乗専に口授された『口伝鈔』でしたから、『浄土真要鈔』時代からいえば七年後になります。
ところで存覚上人は、その信因称報説の根拠を第十八願成就文の教意に求められています。この点は覚如上人も同じですが、成就文の乃至一念の理解に両者は異なりが見られます。本願成就文の「乃至一念」 に、存覚上人は隠顕を立てられます。
- この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。(「同前】九六七頁)
といわれたものがそれです。顕の義からいえば本願の「乃至十念」に対望するから行の一念であるが、隠の義からいえば往生の因が決定する信の一念であるといわれるのです。そうすると顕の義からいえば念仏往生、一念(一声)の念仏に決定往生の徳があるという念仏往生の法義になり、隠の義からいえば信の一念であって、念仏往生の本願を開信する信心が初めて起こったとき(一念)に往生の真因が決定するという信心正因の法義を表すことになるというのです。これは法然聖人が成就文の一念を行の一念とされたのと、親鸞聖人が同じ成就文を信の一念とされたのとを両立させようとするもので存覚上人の教学的な境位 を示していたといえましょう。
それに対して覚如上人は、そのような隠顕を立てず、成就文の一念は、信の一念であると取りきってしまわれます。そして、諸仏が讚嘆されている本願の名号を聞信した時剋の極促 (一念)に往生の業事は成弁し、一声の称名も待たずに正定聚不退の位につくという信心正因説を確立していかれるわけです。すでに往生の因は信の一念において成就しているのですから、信後の称名は報恩の大行であって、往生の因に擬すべきではないという信心正因・称名報恩説を確立していかれたのでした。『口伝鈔』第二十一条に、
- しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに往生のための正因たるやうに こころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。・・・・・・一念をもつて往生治定の時刻と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理をあかせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。 (「同前」九一○─九一一頁)
ここでははっきりと念仏往生に対して信心正因を表すという徹底した信因称報説が開顕されています。そしてまた『浄土真要鈔』では、平生に仏法にあう機にとっては平生業成であるが、臨終に法にあう機は臨終に往生するといわれています。しかし『口伝鈔』では、平生・臨終を問わず、信一念に往生が決定することを平生業成というとされていて、平生業成説が徹底されています。それはともあれ信心正因・称名報恩・平生業成という説は、むしろ覚如上人よりも先に存覚上人が説かれていたことに注意したいと思います。