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さんいちもんどう
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 「信巻」([[信巻本#no19|註 229]])にある一段。第十八願文の[[至心]]・[[信楽]]・[[欲生]]の三心と、天親が『浄土論』に示す[[一心]]の関係を明らかにし、三心が信楽一心に摂おさまるという三心即一心の道理を二つの問答によって明らかにする。<br />
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 「信巻」([[信巻本#no19|註 229]])にある一段。[[第十八願]]文の[[至心]]・[[信楽]]・[[欲生]]の三心と、[[天親]]が『浄土論』に示す[[一心]]の関係を明らかにし、三心が信楽一心に摂おさまるという三心即一心の[[道理]]を二つの問答によって明らかにする。<br />
  
 第一問答では、本願文には三心が誓われているのに、なぜ天親は一心と述べたのかと問い、文字があらわす意味から答える (字訓釈)。そこでは、至・心・信・楽・欲・生の各字の意を挙げ、三心それぞれを 「疑蓋雑はることなきなり」と示し、続いて 「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」([[P:231|註 231]])と述べて、三心が信楽一心に摂まることが明らかにされる。<br />
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 第一問答では、本願文には三心が誓われているのに、なぜ天親は一心と述べたのかと問い、文字があらわす意味から答える (字訓釈)。そこでは、至・心・信・楽・欲・生の各字の意を挙げ、三心それぞれを 「疑蓋雑はることなきなり」と示し、続いて  
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:「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」([[P:231|註 231]])
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と述べて、三心が信楽一心に摂まることが明らかにされる。<br />
  
 第二問答では、愚悪の衆生のために誓われた本願に、なぜ一心ではなく三心が誓われたのかと問い、法の道理から三心それぞれの内容を示して答える (法義釈)。ここでは、本来衆生には三心を起こすことができず (機無)、そのため阿弥陀仏が衆生にかわって三心を成就し (円成)、その成就した三心を名号におさめて衆生に与え (回施)、それを受け取る衆生には無疑の心しかない (成一) という構造が示される。これによって阿弥陀仏の成就した三心が回向されて衆生の三心となることが明らかにされる。阿弥陀仏の三心は、その智慧と慈悲とが円かにそなわった名号となってはたらくものであることから、仏の真実心 (智慧) を至心、仏が衆生を往生させようとする大悲心 (慈悲) を欲生、信楽をこの至心・欲生によって成立する心で、衆生を救済することに疑いがない心とする。次に衆生の三心は、至心とは真実心、信楽とは無疑心、欲生とは必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を期する心をいう。この三心相互の関係について、至心釈では 「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」([[P:232|註 232]])、信楽釈では 「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」」([[P:235|註 235]])、欲生釈では 「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり」」([[信巻本#no39|註 241]])と示される (三重出体)。すなわち、至心は信楽の体徳であり、信楽はその心相であり、欲生は往生は間違いないと安堵するおもいのことで、信楽にそなわる義を別開したものとされる。このように第二問答においても、三心は[[疑蓋無雑]]の信楽一心に摂まることが明らかにされている。「信巻」には 「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり」([[P:245|註 245]])とある。<br />
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 第二問答では、愚悪の衆生のために誓われた本願に、なぜ一心ではなく三心が誓われたのかと問い、法の[[道理]]から三心それぞれの内容を示して答える (法義釈)。ここでは、本来衆生には三心を起こすことができず (機無)、そのため阿弥陀仏が衆生にかわって三心を成就し (円成)、その成就した三心を名号におさめて衆生に与え (回施)、それを受け取る衆生には無疑の心しかない (成一) という構造が示される。これによって阿弥陀仏の成就した三心が[[回向]]されて衆生の三心となることが明らかにされる。阿弥陀仏の三心は、その智慧と慈悲とが円かにそなわった名号となってはたらくものであることから、仏の真実心 ([[智慧]]) を至心、仏が衆生を往生させようとする大悲心 ([[慈悲]]) を欲生、信楽をこの至心・欲生によって成立する心で、衆生を[[救済]]することに疑いがない心とする。次に衆生の三心は、至心とは真実心、信楽とは無疑心、欲生とは必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を期する心をいう。この三心相互の関係について、至心釈では
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:「この至心はすなはちこれ[[至徳の尊号]]をその体とせるなり」([[P:232|註 232]])
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と示される (三重出体)。すなわち、至心は信楽の体徳であり、信楽はその心相であり、欲生は往生は間違いないと安堵するおもいのことで、信楽にそなわる義を別開したものとされる。このように第二問答においても、三心は[[疑蓋無雑]]の信楽一心に摂まることが明らかにされている。「信巻」には  
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とある。<br />
  
 その後、菩提心釈([[P:246|註 246]])、信一念釈([[P:250|註 250]])が設けられて信楽一心の徳義が種々に述べられ、最後には 「三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ」([[P:253|註 253]])と結んでいる。→[[信の一念]]、[[菩提心]]、[[現生十種の益]]。
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 その後、菩提心釈([[P:246|註 246]])、信一念釈([[P:250|註 250]])が設けられて信楽一心の徳義が種々に述べられ、最後には  
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2019年12月14日 (土) 10:18時点における版

さんいち-もんどう

 「信巻」(註 229)にある一段。第十八願文の至心信楽欲生の三心と、天親が『浄土論』に示す一心の関係を明らかにし、三心が信楽一心に摂おさまるという三心即一心の道理を二つの問答によって明らかにする。

 第一問答では、本願文には三心が誓われているのに、なぜ天親は一心と述べたのかと問い、文字があらわす意味から答える (字訓釈)。そこでは、至・心・信・楽・欲・生の各字の意を挙げ、三心それぞれを 「疑蓋雑はることなきなり」と示し、続いて

「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」(註 231)

と述べて、三心が信楽一心に摂まることが明らかにされる。

 第二問答では、愚悪の衆生のために誓われた本願に、なぜ一心ではなく三心が誓われたのかと問い、法の道理から三心それぞれの内容を示して答える (法義釈)。ここでは、本来衆生には三心を起こすことができず (機無)、そのため阿弥陀仏が衆生にかわって三心を成就し (円成)、その成就した三心を名号におさめて衆生に与え (回施)、それを受け取る衆生には無疑の心しかない (成一) という構造が示される。これによって阿弥陀仏の成就した三心が回向されて衆生の三心となることが明らかにされる。阿弥陀仏の三心は、その智慧と慈悲とが円かにそなわった名号となってはたらくものであることから、仏の真実心 (智慧) を至心、仏が衆生を往生させようとする大悲心 (慈悲) を欲生、信楽をこの至心・欲生によって成立する心で、衆生を救済することに疑いがない心とする。次に衆生の三心は、至心とは真実心、信楽とは無疑心、欲生とは必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を期する心をいう。この三心相互の関係について、至心釈では

「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(註 232)、

信楽釈では

「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」」(註 235)、

欲生釈では

「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり」」(註 241)

と示される (三重出体)。すなわち、至心は信楽の体徳であり、信楽はその心相であり、欲生は往生は間違いないと安堵するおもいのことで、信楽にそなわる義を別開したものとされる。このように第二問答においても、三心は疑蓋無雑の信楽一心に摂まることが明らかにされている。「信巻」には

「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり」(註 245)

とある。

 その後、菩提心釈(註 246)、信一念釈(註 250)が設けられて信楽一心の徳義が種々に述べられ、最後には

「三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ」(註 253)

と結んでいる。→信の一念菩提心現生十種の益

信の一念
菩提心
現生十種の益
機無・円成・回施・成一