操作

「仏菩薩に…発せん」の版間の差分

提供: WikiArc

5行目: 5行目:
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
 『涅槃経』の原文では、声聞、縁覚の二乗でも仏、菩薩より法を聞けば阿耨多羅三藐三菩提心(菩薩心)を起こすことができるが、難治の三病人は菩提心を発することはできないという。御開山は、この『涅槃経』の文の配置を入れ代えて難治の三病人であっても、阿弥陀仏の本願を[[聞信]]すれば仏道の正因である往生の菩提心を発せることができるという意に転じられた。<br />
+
 『涅槃経』の原文では、[[利他]]を知らない[[声聞]]、[[縁覚]]の[[二乗]]であっても、仏、菩薩より[[大乗]]の法を聞けば阿耨多羅三藐三菩提心([[菩提心]])を起こすことができるが、難治の三病人([[謗大乗]]、[[五逆罪]]、[[一闡提]])は仏に成る菩提心を発することはできないという。御開山は、この『涅槃経』の文の配置を代えて難治の三病人であっても、阿弥陀仏の本願を[[聞信]]すれば仏道の正因である往生の菩提心([[信心]])を発せることができるという意に転じられた。<br />
この難治の三病人の救済の意を、長々と『涅槃経』の「梵行品」「迦葉品」を引文され、具体的な阿闍世の回心を通して阿弥陀仏の本願による[[救済]]をあらわしておられるのであった。父殺しの罪によって無間地獄に堕ちる([[信巻末#P--281|信巻 P.281]])と苦悶苦悩していた阿闍世の、
+
この[[難治の三病|難治の三病人]]の救済の意を、長々と『涅槃経』の「梵行品」([[信巻末#P--266|信巻 P.266]])「迦葉品」([[信巻末#P--290|信巻 P.290]]) を引文され、具体的な[[阿闍世]]の回心を通して阿弥陀仏の本願による[[救済]]をあらわしておられるのであった。→[[誓願一仏乗]]<br />
:〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉 ([[信巻末#P--287|信巻 P.287]])
+
父殺しの罪によって[[無間地獄]]に堕ちる([[信巻末#P--281|信巻 P.281]])と苦悶苦悩し「[[怖畏]]」していた阿闍世に「阿闍世王の為に涅槃に入らず」([[信巻末#no116|信巻 P.277]])と「如来常住」を淳淳と説かれたとき、[[阿闍世]]は、
という鮮やかな回心(阿闍世の発菩提心)に、善悪浄穢を問わない阿弥陀如来の本願による浄土教の[[救済]]を見られたのであった。→[[願作仏心]]
+
:〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに[[阿鼻地獄]]にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉 ([[信巻末#P--287|信巻 P.287]])
 +
という鮮やかな回心(阿闍世の[[発菩提心]])を遂げたのであった。阿闍世は[[金剛の志|金剛の菩提心]]によって自らが堕する地獄を破ってしまったのである。御開山は、ここに阿弥陀如来の善悪浄穢を問わない本願力([[他力]])による浄土教の[[救済]]を見ておられたのであった。→[[願作仏心]]
  
『尊号真像銘文』で、第十八願の「唯除五逆誹謗正法」の聞は、単に選択を意味する唯除という文ではなく、
+
晩年の『尊号真像銘文』では、[[第十八願]]の「唯除五逆誹謗正法」の語は、唯除という排除を示す文ではなく、
:「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
+
:「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。([[尊号真像銘文#P--644|尊号 P.644]])
と五逆と誹謗正法の者に「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」とされておられる。我らは、難治の機であったから阿弥陀仏の[[誓願一仏乗]]の法から逃げまわり今まで[[生死]]に流転する人間界にいるのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」と言われるのだが〔なんまんだぶ〕を称えることが慚愧・讃嘆・報恩になるとなり([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]]) と示された御開山の意を領解できないのが近代教学の大谷派の自覚の信に惑うて「[[名体不二]]」の〔なんまんだぶ〕を等閑にする真宗坊主であるならば悲しきことである。<br />
+
と五逆と誹謗正法の者に「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」とされておられる。我らは、難治の機であったから阿弥陀仏の[[誓願一仏乗]]の法から逃げまわり今まで[[生死]]に流転する人間界にいるのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」と言われるのだが〔なんまんだぶ〕を称えることが慚愧・讃嘆・報恩になるとなり([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]]) と示された御開山の意を領解できないのが[[近代教学]]の自覚の信に惑う人たちであった。信に惑うて〔なんまんだぶ〕という「[[名体不二]]」の[[聞即信]]のご[[法義]]を等閑にするならば悲しきことである。<br />
御開山は、この「難治の三病人」を『法事讃』の、
+
なお、御開山は、この「難治の三病人」を『法事讃』の、
 
:「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く」([[信巻末#P--303|信巻 P.303]])
 
:「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く」([[信巻末#P--303|信巻 P.303]])
の文を引かれ、「謗法闡提 回心皆往(謗法・闡提、回心すればみな往く)」と、[[一闡提]]の救いまでも示して結論されていかれのであった。
+
の文を引かれ、「謗法闡提 回心皆往(謗法・闡提、回心すればみな往く)」と、[[一闡提]]の救いを示して結論されていかれのであった。
  
  
25行目: 26行目:
 
:善男子、譬へば病あり、必死にして治すること無し、もしは瞻病随意の医薬有り、もしは瞻病随意の医薬無し。かくのごときの病、定んで治すべからず。まさに知るべし、この人必死疑い無きが如し。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。
 
:善男子、譬へば病あり、必死にして治すること無し、もしは瞻病随意の医薬有り、もしは瞻病随意の医薬無し。かくのごときの病、定んで治すべからず。まさに知るべし、この人必死疑い無きが如し。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。
 
<font color="green">從佛菩薩得聞法已。即便能發阿耨多羅三藐三菩提心。
 
<font color="green">從佛菩薩得聞法已。即便能發阿耨多羅三藐三菩提心。
:仏・菩薩に従ひて聞法を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発す。</font>{下記の文から引文}
+
:仏・菩薩に従ひて聞法を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発す。</font>{下記の文から移動}
 
若有聲聞、縁覺、菩薩 或有説法 或不説法。不能令其 發阿耨多羅三藐三菩提心。
 
若有聲聞、縁覺、菩薩 或有説法 或不説法。不能令其 發阿耨多羅三藐三菩提心。
 
:もし声聞、縁覚、菩薩ありて、あるいは説法する有り、あるいは説法せず、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむることあたはず。([[hwiki:大般涅槃経/2#→信巻明所被機釈引文(114)|現病品]])
 
:もし声聞、縁覚、菩薩ありて、あるいは説法する有り、あるいは説法せず、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむることあたはず。([[hwiki:大般涅槃経/2#→信巻明所被機釈引文(114)|現病品]])

2018年5月9日 (水) 00:19時点における版

ぶつぼさつに…ほっせん

 この文は『涅槃経』の原文では、次の「もし声聞・縁覚・菩薩ありて…発せしむることあたはず」の文のあと、三十四字(原漢文の字数)をへだてた後にある。(信巻 P.266)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 『涅槃経』の原文では、利他を知らない声聞縁覚二乗であっても、仏、菩薩より大乗の法を聞けば阿耨多羅三藐三菩提心(菩提心)を起こすことができるが、難治の三病人(謗大乗五逆罪一闡提)は仏に成る菩提心を発することはできないという。御開山は、この『涅槃経』の文の配置を代えて難治の三病人であっても、阿弥陀仏の本願を聞信すれば仏道の正因である往生の菩提心(信心)を発せることができるという意に転じられた。
この難治の三病人の救済の意を、長々と『涅槃経』の「梵行品」(信巻 P.266)「迦葉品」(信巻 P.290) を引文され、具体的な阿闍世の回心を通して阿弥陀仏の本願による救済をあらわしておられるのであった。→誓願一仏乗
父殺しの罪によって無間地獄に堕ちる(信巻 P.281)と苦悶苦悩し「怖畏」していた阿闍世に「阿闍世王の為に涅槃に入らず」(信巻 P.277)と「如来常住」を淳淳と説かれたとき、阿闍世は、

〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉 (信巻 P.287)

という鮮やかな回心(阿闍世の発菩提心)を遂げたのであった。阿闍世は金剛の菩提心によって自らが堕する地獄を破ってしまったのである。御開山は、ここに阿弥陀如来の善悪浄穢を問わない本願力(他力)による浄土教の救済を見ておられたのであった。→願作仏心

晩年の『尊号真像銘文』では、第十八願の「唯除五逆誹謗正法」の語は、唯除という排除を示す文ではなく、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号 P.644)

と五逆と誹謗正法の者に「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」とされておられる。我らは、難治の機であったから阿弥陀仏の誓願一仏乗の法から逃げまわり今まで生死に流転する人間界にいるのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」と言われるのだが〔なんまんだぶ〕を称えることが慚愧・讃嘆・報恩になるとなり(尊号 P.655) と示された御開山の意を領解できないのが近代教学の自覚の信に惑う人たちであった。信に惑うて〔なんまんだぶ〕という「名体不二」の聞即信のご法義を等閑にするならば悲しきことである。
なお、御開山は、この「難治の三病人」を『法事讃』の、

「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻 P.303)

の文を引かれ、「謗法闡提 回心皆往(謗法・闡提、回心すればみな往く)」と、一闡提の救いを示して結論されていかれのであった。


涅槃経の引文 「国訳」

迦葉。世有三人 其病難治。一謗大乘。二五逆罪。三一闡提。如是三病世中極重。悉非聲聞・縁覺{菩薩}之所能治。

迦葉、世に三人のその病治しがき有り。一つには大乗を謗り、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病は世の中の極重なり。悉く声聞・縁覚のよく治するところに非ず。

善男子。譬如有病 必死難治。若有瞻病隨意醫藥。若無瞻病隨意醫藥。如是之病 定不可治。當知是人 必死不疑。善男子。是三種人亦復如是。

善男子、譬へば病あり、必死にして治すること無し、もしは瞻病随意の医薬有り、もしは瞻病随意の医薬無し。かくのごときの病、定んで治すべからず。まさに知るべし、この人必死疑い無きが如し。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。

從佛菩薩得聞法已。即便能發阿耨多羅三藐三菩提心。

仏・菩薩に従ひて聞法を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発す。{下記の文から移動}

若有聲聞、縁覺、菩薩 或有説法 或不説法。不能令其 發阿耨多羅三藐三菩提心。

もし声聞、縁覚、菩薩ありて、あるいは説法する有り、あるいは説法せず、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむることあたはず。(現病品

──引文はここまで──
迦葉。譬如病人。若有瞻病隨意醫藥則可令差。若無此三則不可差。聲聞縁覺亦復如是。

迦葉、譬へば病人のもし瞻病随意の医薬有らば、すなわち差(い)えしむべし。もしこの三なければすなわち差(い)ゆべかざるが如し。声聞・縁覚もまたかくの如し。

從佛菩薩得聞法已。即便能發阿耨多羅三藐三菩提心。

仏・菩薩に従ひて聞法を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発す。

非不聞法能發心也。

法を聞かずしてよく心を発すに非ざるなり。