「教」の版間の差分
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すなわち、釈尊の一代の説法、およびそれに準ずる菩薩諸聖の説などを指して教とよぶが、それらは[[八万四千]]の法門といわれるように膨大なものであり、説かれる内容も多岐にわたっている。そのため、それらを分類整理し価値判断して、仏教全体を統一的に把握していこうとする教相判釈(教判)の営みが古くよりなされてきた。<br> | すなわち、釈尊の一代の説法、およびそれに準ずる菩薩諸聖の説などを指して教とよぶが、それらは[[八万四千]]の法門といわれるように膨大なものであり、説かれる内容も多岐にわたっている。そのため、それらを分類整理し価値判断して、仏教全体を統一的に把握していこうとする教相判釈(教判)の営みが古くよりなされてきた。<br> | ||
親鸞は、『観経』『小経』顕説の教えを方便の教とするのに対して、釈尊の出世本懐を表した経である『大経』を真実の教とした。「教巻」には、 | 親鸞は、『観経』『小経』顕説の教えを方便の教とするのに対して、釈尊の出世本懐を表した経である『大経』を真実の教とした。「教巻」には、 | ||
− | :それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。 | + | :それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。 ([[教巻#P--135|教巻 P.135]]) |
とある。なお、『大経』は阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされる。 | とある。なお、『大経』は阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされる。 | ||
第十七願文には、 | 第十七願文には、 | ||
:たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。([[大経上#17gan|大経 P.18]]) | :たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。([[大経上#17gan|大経 P.18]]) | ||
と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。 | と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。 | ||
− | + | 釈尊が『大経』を説いて'''本願の名号のいわれ'''を顕示したのは、この第十七願成就のすがたであり、この真実の教にあらわされている本願の名号を[[正定業]]として示すのが「行巻」とされている。(浄土真宗辞典) | |
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→[[補註8|補註8真実教]] ([[浄文#P--477|浄文 P.477]]) | →[[補註8|補註8真実教]] ([[浄文#P--477|浄文 P.477]]) | ||
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*教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。<br> | *教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。<br> | ||
*「教は<kana>暁喩(ぎょうゆ)</kana>の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「<kana>言教(ごんきょう)</kana>」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー) | *「教は<kana>暁喩(ぎょうゆ)</kana>の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「<kana>言教(ごんきょう)</kana>」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー) | ||
− | + | 教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える[[補註10|大行]]である。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と四十七対を挙げられている所以である([[行巻#no98|行巻 P.199]])。 この大行が衆生の上にとどいて[[補註11|大信]]となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。 | |
− | 『法華玄義』「教者聖人被<sub>レ</sub>下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/ | + | 『法華玄義』「教者聖人被<sub>レ</sub>下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1716_.33.0683b09.html 『法華玄義』] |
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2017年11月27日 (月) 14:14時点における版
きょう
教とは
すなわち、釈尊の一代の説法、およびそれに準ずる菩薩諸聖の説などを指して教とよぶが、それらは八万四千の法門といわれるように膨大なものであり、説かれる内容も多岐にわたっている。そのため、それらを分類整理し価値判断して、仏教全体を統一的に把握していこうとする教相判釈(教判)の営みが古くよりなされてきた。
親鸞は、『観経』『小経』顕説の教えを方便の教とするのに対して、釈尊の出世本懐を表した経である『大経』を真実の教とした。「教巻」には、
- それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。 (教巻 P.135)
とある。なお、『大経』は阿弥陀仏の第十七願文に応じて説かれたとされる。 第十七願文には、
- たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。(大経 P.18)
と説かれており、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえしめようと誓われている。 釈尊が『大経』を説いて本願の名号のいわれを顕示したのは、この第十七願成就のすがたであり、この真実の教にあらわされている本願の名号を正定業として示すのが「行巻」とされている。(浄土真宗辞典)
- 教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。
- 「教は
暁喩 の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「言教 」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー)
教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える大行である。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と四十七対を挙げられている所以である(行巻 P.199)。 この大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。
『法華玄義』「教者聖人被レ下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言(ことば)なり)」 『法華玄義』