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臨終における来迎は、浄土教徒にとっての最大の関心事であった。その来迎思想を〔なんまんだぶ〕を往生の業因と受け容れた信心の利益である「念仏衆生摂取不捨」の言(ことば)によって無化されたのが御開山であった。不確実な臨終来迎を論ずるよりも、今ここに現に声となって称えられている可聞可称の〔なんまんだぶ〕が、阿弥陀仏の摂取不捨の喚(よ)び声であったから平生に[[業事成弁]]しているのであった。
 
臨終における来迎は、浄土教徒にとっての最大の関心事であった。その来迎思想を〔なんまんだぶ〕を往生の業因と受け容れた信心の利益である「念仏衆生摂取不捨」の言(ことば)によって無化されたのが御開山であった。不確実な臨終来迎を論ずるよりも、今ここに現に声となって称えられている可聞可称の〔なんまんだぶ〕が、阿弥陀仏の摂取不捨の喚(よ)び声であったから平生に[[業事成弁]]しているのであった。
  
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2017年8月18日 (金) 17:01時点における版

らいこう らいごう

 浄土に往生したいと願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、聖衆(しょうじゅ)(浄土の聖者)を率いてその人を迎えに来ること。臨終現前(りんじゅうげんぜん)ともいう。『大経』第十九願に誓われ、さらに三輩往生の一段にも説かれる。『観経』では、九品(くぼん)往生にそれぞれの来迎の相を説き、また『小経』にも説かれている。
浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(平生業成(へいぜいごうじょう))から臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生自力の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)。また、来迎の意味を転じて、他力念仏の人が信心獲得(ぎゃくとく)より浄土往生の時まで、常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の摂取利益(りやく)のこととして説かれることもある。 (真要鈔 P.966)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は『御消息』の第一通で、

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(御消息 P.735)

と述べ、信心を得たときに往生することが定まるのであるから臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生、自力の行者であるとして、臨終の来迎をたのみにすることを否定されておられる。これをうけた蓮如さんは『御文章』一帖二通に、「不来迎の談、平生業成の義」(御文章 P.1085) 等と述べている。
なお御開山は『唯信鈔文意』に、

「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。(唯信鈔文意p.701)

等と述べ、来迎の意味を転じ、他力念仏の人が信心獲得より浄土往生の時まで、常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の摂取の利益のことして説いている。(ここまで『浄土真宗辞典』より引用)

臨終における来迎は、浄土教徒にとっての最大の関心事であった。その来迎思想を〔なんまんだぶ〕を往生の業因と受け容れた信心の利益である「念仏衆生摂取不捨」の言(ことば)によって無化されたのが御開山であった。不確実な臨終来迎を論ずるよりも、今ここに現に声となって称えられている可聞可称の〔なんまんだぶ〕が、阿弥陀仏の摂取不捨の喚(よ)び声であったから平生に業事成弁しているのであった。