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「顕浄土真実信文類 (末)」の版間の差分

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[[現代語 信巻#A--82|【82】]] 光明寺の和尚(善導)のいはく([[般舟讃_(七祖)#P--792|般舟讃 七九二]])、「もろもろの行者にまうさく、[[凡夫の…欣はざるべからず|凡夫の]]生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち[[形と名]]と頓に絶えぬるをや」と。
 
[[現代語 信巻#A--82|【82】]] 光明寺の和尚(善導)のいはく([[般舟讃_(七祖)#P--792|般舟讃 七九二]])、「もろもろの行者にまうさく、[[凡夫の…欣はざるべからず|凡夫の]]生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち[[形と名]]と頓に絶えぬるをや」と。
  
[[現代語 信巻#A--83|【83】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--660|礼讃 六六〇]])、「仰ぎ願はくは一切往生人等、[[よく…願はんものは|よく]]みづからおのれが能を思量せよ。今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。[[畢命を期として]]、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに[[無為の法楽]]を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快しみにあらずや、知るべし」と。{以上}
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[[現代語 信巻#A--83|【83】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--660|礼讃 六六〇]])、「仰ぎ願はくは一切往生人等、[[よく…願はんものは|よく]]みづからおのれが能を思量せよ。<ref>善自思量已能今身願生彼国者<ref>今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。[[畢命を期として]]、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに[[無為の法楽]]を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快しみにあらずや、知るべし」と。{以上}
  
 
===真仏弟子釈===
 
===真仏弟子釈===

2010年5月29日 (土) 12:23時点における版

信文類三(末)

信一念釈

総標

【60】 それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

経・釈引文

【61】 ここをもつて『大経』(下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

【62】 また(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。

 また(大経・下)、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲はん」とのたまへり。

 また(如来会・下)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。{以上}

【63】 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説すれば、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。{以上}

【64】 光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)といひ、また「専心専念」(同・意)といへり。{以上}

経釈文自釈

【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
【66】 宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。

一念転釈

しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。
金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。
曇鸞『論註』二文

【67】 『論の註』(下 一四四)にいはく、「かの安楽浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。

【68】 またいはく(同・上 八二)、「〈是心作仏〉(観経)とは、いふこころは、心よく作仏するなり。〈是心是仏〉(同)とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり。

善導『観経疏』(定善義)の文

【69】 光明(善導)のいはく(定善義・意 四三二)、「この心作仏す、この心これ仏なり、この心のほかに異仏ましまさず」(意)とのたまへり。{以上}

三心一心総結

【70】 ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。
【71】 三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、  知るべしと。

【72】 『止観』の一にいはく、「菩提とは天竺(印度)の語、ここには道と称す。質多とは天竺の音なり、この方には心といふ。心とはすなはち慮知なり」と。{以上}

重釈要義

横超釈

義釈

【73】 横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超はに対しに対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。

文証

【74】 『大本』(大経・上)にのたまはく、「無上殊勝の願を超発す」と。

【75】 またのたまはく(同・上)、「われ超世の願を建つ。かならず無上道に至らんと。名声十方に超えて、究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじ」と。

【76】 またのたまはく(同・下)、「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。に昇るに窮極なし。 往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}

【77】 『大阿弥陀経』(下)[支謙三蔵の訳]にのたまはく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るにこれ極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}

断四流釈

義釈

【78】 断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、としてまさに受くべき生なし。としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。四流とはすなはち四暴流なり。また生・老・病・死なり。
文証

【79】 『大本』(大経・下)にのたまはく、「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流れを度すべし」と。

【80】 またのたまはく(平等覚経・二)、「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。{以上}

【81】 『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「また涅槃は名づけて洲渚とす。なにをもつてのゆゑに、四大の暴河に漂ふことあたはざるがゆゑに。なんらをか四つとする。一つには欲暴、二つには有暴、三つには見暴、四つには無明暴なり。このゆゑに涅槃を名づけて洲渚とす」と。{以上}

【82】 光明寺の和尚(善導)のいはく(般舟讃 七九二)、「もろもろの行者にまうさく、凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち形と名と頓に絶えぬるをや」と。

【83】 またいはく(礼讃 六六〇)、「仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。[1]
  1. 善自思量已能今身願生彼国者[2]