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「慕帰絵詞」の版間の差分

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西本願寺3世覚如上人の伝記を叙した南北朝時代の絵巻。覚如の次男従覚の撰になり、覚如上人の<kana>帰寂(きじゃく)</kana>を慕う意味でこの名がつけられた。詞書(ことばがき)は三条公忠(きんただ)ら数人の執筆、絵は藤原隆昌(たかまさ)・隆章(たかあき)の筆で、1351年(正平6・観応2)の制作。10巻からなるが、第1、7巻は後世に紛失し、1482年(文明14)に飛鳥井雅康(あすかいまさやす)が詞、藤原久信が絵を補作している。→[https://kotobank.jp/word/%E6%85%95%E5%B8%B0%E7%B5%B5%E8%A9%9E-629323 コトバンクより]
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本願寺3世覚如上人の伝記を叙した南北朝時代の絵巻。覚如の次男従覚の撰になり、覚如上人の<kana>帰寂(きじゃく)</kana>を慕う意味でこの名がつけられた。詞書(ことばがき)は三条公忠(きんただ)ら数人の執筆、絵は藤原隆昌(たかまさ)・隆章(たかあき)の筆で、1351年(正平6・観応2)の制作。10巻からなるが、第1、7巻は後世に紛失し、1482年(文明14)に飛鳥井雅康(あすかいまさやす)が詞、藤原久信が絵を補作している。→[https://kotobank.jp/word/%E6%85%95%E5%B8%B0%E7%B5%B5%E8%A9%9E-629323 コトバンクより]<br />
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2021年11月12日 (金) 02:00時点における版

本願寺3世覚如上人の伝記を叙した南北朝時代の絵巻。覚如の次男従覚の撰になり、覚如上人の帰寂(きじゃく)を慕う意味でこの名がつけられた。詞書(ことばがき)は三条公忠(きんただ)ら数人の執筆、絵は藤原隆昌(たかまさ)・隆章(たかあき)の筆で、1351年(正平6・観応2)の制作。10巻からなるが、第1、7巻は後世に紛失し、1482年(文明14)に飛鳥井雅康(あすかいまさやす)が詞、藤原久信が絵を補作している。→コトバンクより
覚如師(1270-1351)は御開山滅後の誕生であり親鸞聖人から法文の面授を承けていない。そのため御開山から破門された善鸞の息である如信(1235-1300)から法を承けたといわれる。ゆえに如信上人を本願寺第二世とするのであった。そして覚如自らが寺院化した本願寺の三世とするのであった。
また『歎異抄』の著者と目される唯円坊と法門を談じたと、この『慕帰絵詞』で顕している。なお、御開山には宿善といふ用例はないのだが、後年、蓮如さんが論じられた宿善についての唯善と覚如の論争も記している。


慕帰絵第一巻

第一段

夫まよへるがゆへに、かりに真如の妙埋をうしなひ、さとれるが故に、つゐに妄情の一念もなし。信哉、天台大師ののたまはく、「然此心性諸法、迷謂内外、悟唯一心」(輔行*巻五)と[云々]。然者、番々出世の諸仏も、流転の凡愚の度脱の方法なきことをばあはれみ、億々無量の衆生も、罪障の樊籠に苦縛の解脱しがたき事をばかなしむ。されば大聖一代の設化なれども、八宗・九宗、廃立あひわかれ、顕教・密教、行学ことなり。此中にすべて一代を簡別するに二種あり。いはく、聖道・浄土の二門なり。聖道の方をば難行道といひ、浄土のかたをば易行道と名づく。聖道の諸門は智恵もめでたき人のさとりをきはめて出離せしめ、浄土の一門は愚鈍につたなきものゝ往生をとぐるにつきて難易をわかてるにてしりぬべし。然に『楽邦文類』(巻四)には「浄土非難易、難易有人、難者疑情咫尺万里、易者信万里咫尺」といへる歟。くれぐれと五劫思惟の本願をおこし、はるばる兆載永劫の修行にたへて御骨をおりければ、併十方衆生を懸物にして仏にならむと、我等の為に廻向せしめ給へる四十八願一々に成就して正覚なり。阿弥陀といはれ給事うたがひなきうへは、たゞたのむばかりと先心得べし。さてこの廻向にこたへて信楽の心おこれば、やがて欲生の心発得して、次第に転入すればこそ、三信とも三心ともいはれ、つゐには又一心一念にも落居すなれ。かゝればこそ、釈迦の殷懃付属も、諸仏の証誠護念も、弥陀の功徳をほめ、本願の名号を信ぜよとをしへ給へども、機にたへば尤真言・止観の観道に趺をむすび、持戒・坐禅の禅菴に思をこらすべきに、おそらくは末法の時にいたれる今日此比、聖道の修行にをきては、或は五十二位の階級をふめる歴劫迂廻の漸教もあり、或は自身即仏の解了を事とする速疾頓成の所談もあれども、すべからくをのをの涯分をかへりみて、時機相応の法門に赴て、たゞ横超安楽の要路をねがふべし。唐土諸宗の祖師達も、晨旦名徳の儒士等までも、阿弥陀をほめたてまつり、西方界をすゝめずといふ事なし。ひろくは勘載に隙なし。中にも先、心に浮にまかせて密家一句の要文を得たり。「金剛界広大儀軌品」にいはく、「十方三世一切諸仏中、弥陀勝下劣凡夫易生故、十方恒沙諸仏浄土中、无超安楽国土」[文]。又『秘密神呪経』には、「三世諸仏出世本懐、為説阿弥陀仏名号也」[云々]。或『経』(弥陀秘密*神呪経)には、阿弥陀の三字をばいみじくときあらはさるゝに、「阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八万諸聖教、三字之中皆具足」ともみえたり。めのこたきとかやの風情に心得やすき、加様の明文を少々思いだすに随て書載侍り。幸に明師にあへり。もとは法相・三論の宗を兼学せしかども、後には清閑一実の教に帰伏して更に弐なし。されども遁世をさきとし教導をむねとして、檀主をへつらひ諸人をほむる事はなくして、半籠居の体なれば、世俗の緇素の一門他家のむつびもたがはず、雲客も卿相も年来日来のまじはりそむかざりけり。さるうへに代々寺務管領の号あるに就て、兼て自身往生浄土のためばかりにさる止事なき法流を酌伝を、縁にふれても聞及人の由緒も心悪さに蓬屋に尋のぞみて、此たび出要の方軌を問こゝろみ侍し時、物語あるを聴聞せしかば、宿善の開発しけるにや、理窟霧まけり、一度聞に歓喜をなす。金林月すめり、おちおちあきらむるに疑情ある事なし。孔子詞には、「朝聞道夕死可矣」(論語)といへり。時の間もきえやすき露の命をかへりみず、無後心のおもひに住して、こととくも先たづねけるは、かしこくぞと思ぞあはせらるゝ。又これは常に耳なれ、目にふるゝ様にて珍からぬ文証なれども、『摩訶止観』(巻一上)曰、「一日三捨恒沙身、尚不能報一句力、況両肩荷負、百千万劫、寧報仏法之恩」[文]。
斯芩王の私訶提仏に仕へ、梵摩達が珍宝比丘に奉て、飲食・衣服・臥具・医薬の四事の供養を述し、是みな念仏三昧の法をきかむが為なり。加之大王は法を求て給仕を千載にいたし、常啼は般若を聞て五百由旬の城にいたるといへる歟。『大論』(大智度論*巻一初品意)には、「若無信心雖解文義空無所獲」[云々]。故にその厚恩を報酬せむと欲すれば、泰山は猶ひきく、蒼海はなを浅し。せめても平日の行状を丹青にあらはして、高殿の名徳を晨昏にほめむが為に、二十六段の篇章をたて巻を十軸に分事は、円宗には十乗・十境の観門を明て十界・十如の因果をさとり、浄教には十願・十行の嘉号を持て十即・十生の往益をうと談ず。聖道・浄土の二門、おほく十をもて規矩とするがゆへなり。さて「慕帰」と題する心は、彼帰寂を恋るが故に、此後素の名とし侍り。もとより身才学なければ、思のごとく詞花を和唐にかざる事なく、心頑愚なれば、形のごとく言葉を筆墨にあやつるばかり也。たゞ志之所之偏に忘恥忘嘲たるにや。于時観応二歳[辛卯]初冬十月卅日書記せり。
抑勘解由小路中納言法印[宗昭]者、亀山院御宇文永七年十二月廿八日、三条富小路辺に在て誕生[云々]。俗姓は北家にて氏祖長岡右相府W内麿公R七代の遺孫、弼宰相有国卿六代の孫枝、嵯峨三位宗業卿の末葉、中納言法印宗恵真弟、左衛門佐広綱孫也。厳師上綱は父世を早して一門長者日野中納言家光卿の子となりて、大原二品親王[尊助]の御弟子として三部・四曼の萼をもてあそび、五音・七声の曲に達しけるが、隠遁して覚恵房とよばれき。母儀は周防権守中原のなにがしとかや号しける其女なり。倩往事を思に、宗光朝臣は白河・鳥羽院等の聖代に仕へり。宗業卿は後鳥羽・土御門の明時につかへて、各文道抜群のほまれをほどこし、儒門絶倫の名を揚て、後鳥羽院には四儒随一たりしかば、上古より当時に至までも、道にふけり学をたしなむ家と云事を、褒美讚嘆せぬはなかりけり。爰曽祖父の三位信綱卿は家督の儀として祖業をつぎしかば、祖父広綱に至までは累代余慶によりて、三事の顕要にも浴すべけれども、力なく俗網を二代に隔、梵篋の満月を仰べき身となりしかば、名誉の一流ながくたえぬるこそうたてけれ。法印出家の後は、兼仲献納の猶子たりし程に、彼卿の号をもて、一門も他家もみな勘解由小路法印と称しけるとぞ。

第二段

八、九歳両年之間は、天台宗学者に侍従竪者貞舜とて侍しが、遁世して慈信房澄海とぞ号しける、種姓は猫間中納言光隆卿末流也、彼仁に対して『倶舎論本頌』三十巻をよみけるが、大略暗誦してくらからず。澄海いはく、わづかに十歳の内の人の習学こそありとも、さすがに数巻を暗誦せる事は希代の器量かなとて、称美のあまり天台の秘書、『初心抄』五帖を付属するとて、此書は先師敬日房[円海]自筆本也。随分秘蔵すといへども、法器の感あり、将来にはさだめて仏家の棟梁ともなり、徳海の舟楫ともいはれ給べき人なればとて、奥書をしてぞわたしける。

第三段

後宇多院御在位弘安五年と云十三歳の時、はじめて松房の深窓を出で、しばらく竹院の一室に入侍べき縁や有けむ。山門の碩徳といはれし竹なかの宰相法印宗澄を師として天台宗を学せしめけり。

慕帰絵之事、不可出当寺内之処、有不慮之儀、数年為 将軍家之御物。雖然文明十三年十二月四日、以飛鳥井中納言入道[宋世]依申入事之子細、今度所被返下也。但此内第一第七之巻為紛失之間、同十四年仲冬上旬之比、令書加之者也。尤希代之事歟。可秘可秘。[1]

詞 黄門入道[宋世]
画師 掃部助藤原久信


慕帰絵第二巻

第一段

彼法印に随逐して、垂髪ながらやうやく四教・五時の名目をならひ、一家大都の綱網を得しかば、師範も法器に堪たることをよろこび、童稚も提携に嬾からずしてすぎ行ほどに、いつしか不慮に転変依違の事出来て、幾の月日をもをくらざるに、離坊のきざみ心ならず、又翌年十四といふ春のころ、寺門南滝院右府僧正[浄珍]と申すは、北小路右相府W道経公R孫、二位中将基輔卿息にや、或所にて彼貴辺にたばかりとられけるぞ、縡の楚忽なるもたのまれぬ気して、かつは鬼に神の風情とは是をいふにやと不思議にぞおぼえける。

第二段

さるほどに猶同年の事なりけるに、一乗院前大僧正房、いかなる便にかこの童形のとしのほどにも似ず、はしたなき懸針垂露の筆勢を御覧ぜられけるとて、ゆかしく思召けるにや、あまたの所縁につきて頻に気装し仰られけれども、厳親承諾し申さぬ故は、さのみ所々を経歴もしかるべからざる歟。其上尋常の法には、髪をさげて大童にて久くある事は本意ならず、たゞとく出家得度をもせさせてこそ心安けれとて、かたく子細を申けるに、或時は又小野宮中将入道師具朝臣W于時侍従Rを連々御招引、知音なれば狂て誘てまいらせなむやと懇切に仰られけるとて、其旨を度々伝説しけれども、なを心づよくぞ難渋申ける。聞及やからは、人により事にこそよるに、是程時々の貴命をいなみ申はかへりて無礼にもあたり、人倫の法にも背ものをやなどいひあふもあり。或輩は又さる名家の一族なれば廉をたおさじと、至て古義を存ぜしむるもちからなき事歟、など申も有けり。しかるに、同七月十二日のことなりけるに、黄昏の斜なる景を見すぐし、桂月の明なる光を待えて、四方輿をかゝせ、ひた物具したる大衆を引率して、既に奪取べき御結構あるよしを仲人ありてひそかに告示す程に、本所にも其用意を致す際、其時も御本意を遂られず、さこそ遺恨にも思食けめ。さりながらなをなをもあやにくにや、其後もたゞひたすらに御懇心あさからざれば、親の本懐に任てやがてこそ出家をも遂させめなどこまかに御約束の旨ありければ、此上は固辞に拠なしとて、初参あるべきにさだまりぬ。さりながら聊日かずの経けるとて、いとゞ御心元なき由を、しき浪をうつが如に祗候人これ彼をたちかへたちかへ差上られて責仰られけ れば、まづ西林院三位法印行寛附弟のよしにて入室の儀あり。やがて件法印引導にて摂津国原殿の禅房へはまいりけり。其時の門主は前大僧正坊W信昭 岡屋摂政殿御息Rとぞ申ける。しかるにあへなく十四歳より侍りつる僧正房にも、すぎをくれたてまつりぬ。彼附弟僧正房[覚昭]と申は、近衛関白[基平公]御息也。先師の旧好も他に異なれば、相続給仕あるべき由仰置れけるに付て、今の門主にも猶御気色快然にて、和州菅原の幽地を卜て、常には閑適をよみしましましけるにも、光仙殿とてあまたの垂髪共の外に一両人祗候しける上臘児の其一にて、心操たち振舞も幽玄に、容顔ことがらも神妙におぼしめしければ、昼は竟日に、夜は夜を専にして御影のごとくにつき従たてまつりて、年月を送ける。なかにもよろづにつけてあぢきなく、さすがかたほなる心の底に、おりおりは今生の栄耀もいつまでとのみ思はれ、来生の資貯はかりそめにも儲がたく案ぜられけるぞ、末の世に法器たるべき芳縁のやうやく萌けるにやとおぼえ侍る。

詞 三条亜相[公忠卿]
画師 沙弥如心W因幡守藤原隆章R


慕帰絵第三巻

第一段

弘安九年十月廿日の夜、十七歳といふに、彼院家にして出家、やがてその夜受戒ありけり。これは孝恩院三位僧正印寛W行寛法印甥Rうけたまはりて、とり沙汰とぞきこえし。

第二段

素懐を遂ぬるのちは、行寛法印に相従ひ稽古の一途におもむき、法相を学せらるれば、無著・世親・護法論師の跡ををはんと、ほとんど寸陰を競けり。かくて鑽仰やうやく世上に秀で、名誉しばしば天下にきこゆべかりしかども、蜀都ちからなければ、公請にもしたがひがたく、竜洞あゆみをうしなへば、人望ありぬべしともおぼえねば、いつしか交衆もものうく、されば苦学も勇なくぞおもひける。さる程に、おりおりは門主に身のいとまを申けれどもゆるされず、不諧の故に稽古のかたこそ退屈すとも、離寺の条はしばらく堪忍すべきよし頻に宥おほせられけるとなん。これによりて、遂業の沙汰などにもをよばず、直に律師に挙任せられければ、別道の僧綱の儀にてぞなを寓直しける。

第三段

如信上人と唯円大徳

奈良より偸閑に退出の事ありしついでにおもふ様、たとひ本寺の交衆は抛がたくとも、出離の要道にをいて望を断ぬ。をのれが限量あゆみをうしなへばなり。西方の欣求はたのむにたれり、底下の凡夫にいたるまで愚をすてず。ねがふらくは南無にたよりあればなり。但わが法相宗は五性各別の義をたて、諸法性相の釈をむねとして決判きびしき家をや。おほかた名を法相宗にかけながら、肩を浄土門にいれんとす。交衆のため外聞時宜いかゞなどためらひおぼゆるに、且はまづ例証を外にもとむべからず。宗家には千部の論師といはれたまふ世親菩薩すら、もはら無㝵光に帰命して安楽国に願生すとこそつたへうけたまはれ。ましてやいはん、我等凡夫おもへば出離のはかりごとにはこれこそ所愛の法なれ。機教覆載し、函蓋相順して加様におもひ萌もしかるべき宿縁か。いまきく、他門にもあらで自宗にをいてまぢかきためしあるかな。さしも明匠といはれし三蔵院範憲僧正すら、弥陀をたのみて昼夜に称名を専にし、朝夕に数遍を励けりと[云々]。かしこかりけり、所詮外相の進退によるべからず、内心の工案こそあらまほしけれとて、弘安十年春秋十八といふ十一月なかの九日の夜、東山の如信上人と申し賢哲にあひて釈迦・弥陀の教行を面受し、他力摂生の信証を口伝す。所謂血脈は叡山黒谷源空聖人、本願寺親巒聖人二代の嫡資なり。本願寺祖師先徳、俗姓は日野宮司啓令有範の息男、真諦は山門青蓮院慈鎮和尚の御弟子なれば、たゞ浄土一宗をきはめたまふのみにあらず、本宗は又御師範黒谷の先蹤に相同く一家天台の源底をうかゞひ、上乗秘密の門流をも酌たまひけり。しかれば、真につけてもやむごとなく、俗につけてもいやしからざる事をや 委見于彼別伝 。将又、安心をとり侍るうへにも、なを自他解了の程を決せんがために、正応元年冬のころ、常陸国河和田'唯円房と号せし法侶上洛しけるとき、対面して日来不審の法文にをいて善悪二業を決し、今度あまたの問題をあげて、自他数遍の談にをよびけり。かの唯円大徳は鸞聖人の面授なり。鴻才弁説の名誉ありしかば、これに対してもますます当流の気味を添けるとぞ。

詞 一条前黄門[実材卿]
画師 摂津守藤原隆昌


慕帰絵第四巻

第一段

慈信房善鸞の逸話

同三年には、法印そのとき廿一のことにや、本願寺先祖勧化し給ふ門下ゆかしくおぼゆるに、さることのたよりあることをよろこびて、しばらくいとまを南都の御所へ申賜て、東国巡見しけるに、国はもし相州にや、余綾山中といふ所にして、風瘧をいたはる事侍るに、慈信房 元宮内卿公善鸞 入来ありて、退治のためにわが封などぞ、さだめて験あらんと自称しあたへんとせらる。真弟如信ひじりも坐せられけるに、法印申さば、いまだ若齢ぞかし。其うへ病屈の最中も堅固の所存ありければ、おもひける様、おとさばわれとこそおとさめ、この封を受用せん事しかるべからず。ゆへは師匠のまさしき厳師にて坐せらるれば、もだしがたきには似たれども、この禅襟としひさしく田舎法師となり侍れば、あなづらはしくもおぼえ、しかるべくもおもはぬうへ、おほかた門流にをいて聖人の御義に順ぜず。あまさへ堅固あらぬさまに邪道をことゝする御子になられて、別解・別行の人にてましますうへは、今これを許容しがたく、粛清の所存ありければ斟酌す。まづ請取てのむ気色にもてなして掌中にをさめけり。それをさすがみとがめられけるにや、後日に遺恨ありけるとなん。この慈信房は安心などこそ師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ、今度東関下向のとき、法印常陸に村田といふあたりを折節ゆきすぎけるに、たゞいま大殿の御浜いでとて、男法師・尼女たなびきて、むしといふ物をたれて、二、三百騎にて鹿嶋へまいらせたまふとて、おびたゞしくのゝめく所をとおりあひけり。大殿と号しけるも、辺土ながらかの堺なれば、先代守殿をこそさも称すべけれども、すこぶる国中帰伏のいたりにやと不思議にぞあざみける。かゝる時も他の本尊をばもちゐず、無礙光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せられけるとぞ。下野国高田顕智房と称するは、真壁の真仏ひじりの口決をえ、鸞聖人には孫弟たりながら、御在世にあひたてまつりて面受し申こともありけり。或冬の事なりけるに、炉辺にして対面ありて、聖人と慈信法師と、御顔と顔とさしあはせ、御手と手とゝりくみ、御額を指合て何事にか物を密談あり。其時しも顕智ふと参たれば、両方へのきたまひけり。顕智大徳後日に法印に語示けるは、かゝることをまさしくまいりあひてみたてまつりし。それよりして何ともあれ、慈信御房も子細ある御事なりと[云々]。是をおもふに、何様にも内証外用の徳を施して、融通し給ふむねありけるにやと符合し侍り。天竺には頻婆娑羅王・韋提夫人・阿闍世太子・達多尊者・耆婆大臣等の金輪婆羅門種姓までも、あひ猿楽をしてつゐには仏道に引入せしめ、和朝には上宮皇子、守屋大連を誅伐したまひしも、仏法の怨敵たりし違逆の族を退むがために、君臣の戦におよびしにいたるまでも、みな仏の変作なれば、巧方便をめぐらして、かへりて邪見の群衆を化度せんとしたまふ篇あれば、彼慈信房おほよそは聖人の使節として坂東へ差向たてまつられけるに、真俗につけて、門流の義にちがひてこそ振舞はれけれども、神子・巫女の主領となりしかば、かゝる業ふかきものにちかづきて、かれらをたすけんとにや、あやしみおもふものなり。

第二段

かくて坂東八箇国、奥州・羽州の遠境にいたるまで、処々の露地を巡見して、聖人の勧化のひろくをよびけることをも、いよいよ随喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなどたがひに談話しける程に、はからざるに、両三年の星霜をぞ送ける。さて正応すゑのとし、陽春なかばの比にや、ふたゝび華洛にかへりて、まづこのよしを南都に申ければ、門主よろこび仰られて、いそぎ帰寺をぞすゝめたまひける。しかるに行寛法印入滅のよし、かつがつしめされければ、多年提撕の恩もわすれがたく、浮生変滅の悲もいまさら肝に銘じけるまゝに、師匠の再会、死生みちへだゝりぬれば、院家の帰参もなにかせん。さだめなき世には、いつまでかさすらふべきと案ぜられつゝ、たちまちに南京本寺の厳砌をのがれて、いまよりはひたすらに、東山大谷の禅室をのみぞ、しめ侍ける。

詞 一条前黄門[実材卿]
画師 摂津守藤原隆昌


慕帰絵第五巻

第一段

唯善との宿善論争

鎌倉の唯善房[2]と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房[3]真弟[4]也。幼年のときは少将輔時猶子とし、成人の後は亜相雅忠卿子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける。いにしへ法印と唯公とはかりなき法門相論の事ありけり。法印は、往生は宿善開発の機こそ善知識に値てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれと[云々][5]。善公は、十方衆生とちかひ給へば更宿善の有無を沙汰せず、仏願にあへばかならず往生をうるなり、さてこそ不思議の大願にては侍れと[6]。こゝに法印重て示やう、『大無量寿経』(巻下)には、「若人無善本、不得聞此経、清浄有戒者、乃獲聞正法、曽更見世尊、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歓喜、憍慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸仏、楽聴如是教」とゝかれたり。宿福深厚の機はすなはちよくこの事を信じ、無宿善のものは憍慢・弊・懈怠にして此法を信じがたしといふことあきらけし。随て光明寺和尚この文をうけて「若人無善本、不得聞仏名、憍慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸仏、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歓喜」[7](礼讚)と釈せらる。経釈共に歴然、いかでかこれらの明文を消て宿善の有無を沙汰すべからずとはのたまふやと。其時又唯公、さては念仏往生にてはなくて宿善往生と云べしや、如何と[8]。。また法印、宿善によて往生するとも申さばこそ宿善往生とは申されめ。宿善の故に知識にあふゆへに、聞其名号信心歓喜乃至一念[9]する時分に往生決得し、定聚に住し不退転にいたるとは相伝し侍れ、これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉と。そのゝちは互に言説をやめけり。伊勢入道行願とて五条大納言邦綱卿遺孫なりしは、真俗二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といはれしが、後日に此事を伝聞て彼相論のむねを是非しけり。伊勢入道詞云、北殿の御法文は経釈をはなれず、道理のさすところ言語絶し畢ぬ。又南殿の御義勢は入道法文也とてあざわらひけりと[云々]。昔は大谷の一室に舅・甥両方に居住せしにつきて南北の号ありければ[10]、行願はかくいひけるにこそ。

第二段

永仁三歳の冬応鐘中旬の候にや、報恩謝徳のためにとて本願寺聖人の御一期の行状を草案し、二巻の縁起を図画せしめしより以来、門流の輩、遠邦も近郭も崇て賞翫し、若齢も老者も書せて安置す。将又往年にや、『報恩講式』といへるを作せり。是も祖師聖人を嘆徳し奉れば、遷化の日は月々の例事としていまもかならず一座を儲て三段を演るものなり。

第三段

すでに人間の栄耀をば耳の外にとをざかり、林山の幽閑をのみ心の中にたのしみければ、極楽の往生をねがひて念仏転経の営をもはらにすといへども、先哲の往跡をしたひて煙霞風月の興をもおりにふれては心にぞそめける。凡日野は宦学の両事を以て顕職にも居し温宦にも浴して身を立る家也といふ事、ほゞさきに見たれども、兼ては和漢の両篇をも相並てたしなみ公宴にもしたがふ条は代々の芳躅勿論なり。しかりといへども、三十一字の和語には猶心をいたましめ、幼稚のむかしの日より老体のいまの年にいたるまで、春の曙、秋の夕につけても興を催し、月の夜、雪の朝を待ても宴を設け、時境節をたがへぬ心づかひにて、みづからもたちゐにつけて言の数おほくつもり、賓客の来て志を同するも、したしきうとき、その交たえずなむありける。かゝりければ、正和四のとし、『閑窓集』といふ打聞をするに、思のほかに彼撰歌、仙洞にまいりて叡覧にをよびしより、諸所にきこえて美談せらる。上下二帖にわけて千首廿巻とせり。その集の奥書に書留る蓄懐の歌にいはく、 かずならで 風の情も くらき身に ひかりをゆるせ 玉津嶋姫あつめをく 和歌の浦わの 玉ゆへに なみのした草 あらはれやせむ 曩祖相公 有国卿 、「幼少児童皆聴取、子孫永作廟門塵」と詩をつくりて北野聖廟にたてまつりけるに、朝廷につかへけむ家をいでゝ仏道におもむく身となりにたれば、藤の末葉の片枝までも、いまはをよびがたく、荊の下露の一したゝりともいひがたきに、さすがなを朽ざる曩古のことの葉をしたひて、新なる霊神によみてまいらせけるとて、わすれじな きけとをしへし 二葉より 十代にかゝれる やどの藤浪 入『閑窓集』

詞 六条前黄門[有光卿]
画師 沙弥如心 因幡守藤原隆章


慕帰絵第六巻

第一段

元亨初年沽洗九日、宿願によて法楽の為に詩歌を勧てかの廟門にたてまつりしには、親王権女より月卿・雲客・児童・僧侶にいたるまで、をのをの詩伯十九人、歌仙廿二人[云々]。親疎みな貴重して庶幾し、和漢ともに相兼て結縁するもありけり。歌は三首を題し詩は四韻を賦す。凡数輩の英傑をえらび両篇に序者を設き。ことさら披講を遂むとては面々廟壇に詣で、当座にも歌をよみ詩をつくり侍しなり。その時の詩歌にいはく、春日陪北野聖廟同賦春色属松壖詩一首W題中取韻 右少弁有正 于時前甲斐守詩序者
請看麗色属芳辰 沙壖翠松久視春 累葉垂憐清


覚如上人御病中の枕元には三具足と阿弥陀仏の絵像が掛けられている。


慕帰繪々詞 10巻. 巻10 - 国立国会図書館デジタルコレクション


  1. 漢文読下: 慕帰絵の事、当寺内の処を出ず、不慮の儀ありて、数年、将軍家の御物と為す。しかれば文明十三年十二月四日、飛鳥井中納言入道[宋世]を以つて申入事の子細に依つて、今度の返下をこうむるところ也。ただ此の内の第一、第七の巻、紛失の為の間、同十四年仲冬上旬のころ、書き加えしめる也。もっとも希代の事か。秘すべし秘すべし。
  2. 唯善は、覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念との間の子で親鸞聖人の孫。覚如上人とは、文中に「舅甥」とあるように甥と叔父の関係である。なお『歎異抄』の著者と目される唯円とは師弟とも、あるいは唯円は小野宮禅念の先妻の子であるともいわれる。後に異父兄の覚恵と息である覚師との間で大谷廟堂の相続について争い敗れて鎌倉へ逐電したという。唯善にしてみれば大谷廟堂の地は元来、実父の禅念が残したものであるという意識だったのであろう。
  3. 禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して禅念と名乗った。この禅念の遺した土地を後に覚信尼公は関東の同行の御中へ提供し、御開山の直弟子の顕智などの協力も得て自らは留守職(るすしき)として本願寺の濫觴となった。
  4. 真弟(しんてい)。実の子で、仏法上の継承者。父を法の上の師とした僧のこと。
  5. 覚師は、『無量寿経』に十方衆生とあるのに、何ゆえ本願を信受する機と信受しない機があるかを宿善という名目を用いることで解そうとされたのであろう。また信心正因説(信一念義)を強調するにあたっての鎮西浄土宗による以下のような論難に対する為に「宿善」という名目を導入されたのであろう。弁長の『浄土宗名目問答』中に、一念義系のものが、数遍(多念をたのむもの)は自力難行、一念は他力易行道といって、全分の他力を主張するものに対して、
    答此事極僻也(答ふ、この事極めて僻(ひが)ごとなり。)
    其故 云他力者全馮他力一分無自力事 道理不可然(その故は、他力とは全く他力を憑みて一分の自力無しと云ふ事、道理しからざるべし。)
    云雖無自力善根依他力得往生者一切凡夫之輩于今不可留穢土皆悉可往生淨土(自力の善根無しといへども、他力に依て往生を得ると云ふならば、一切凡夫の輩、今に穢土に留まるべからず、皆な悉く淨土に往生すべし。)
    又一念他力數遍自力者何人師釋耶(また一念は他力、數遍は自力とは何(いか)なる人師の釋ぞや?)
    善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋 一念他力數遍自力釋難得意(善導の釋の中に自力他力の義有れども自力他力の釋無し。一念は他力、數遍は自力の釋、意(こころ)得難し。)[1]
    と批判している。自力の善根が一分もなくても全分他力のみによって往生をうるならば、穢土に留まるものなど一人もいない筈ではないかというのである。これに対して「宿善」という名目を導入して、過去世の行者の宿善が開発した機と未だ開発しない機の違いによって往生の遅速があるのだと応答される意があったのであろう。
  6. 法然聖人の『往生浄土用心』には、「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。」とあり、唯善の言葉は間違っていない。むしろ御開山が使われていない宿善という名目を導入された覚如師が説明不足であろう。
  7. もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。 清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。◇『無量寿経」下巻の往覲偈の文。現在にこの法を聞き得たのは、過去世における遇法の縁であったという意。
  8. この唯善師の表明は正しい。ただ、覚師は法に遇い得た処の信を論ずるのであり、唯善師は念仏往生の願である行について語るのであって、そもそも議論が噛み合っていない。
  9. 「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。」『無量寿経』の本願成就文。◇覚師は、本願成就文から法義を論じ、唯善師は第十八願の念仏往生の願の意に立ち論じているのである。覚師は一念義的傾向が強く、唯善師は本願に選択された名号を重視する立場であったのであろう。
  10. 覚信尼公なき後、覚恵が異父弟の唯善を京へ呼び戻し彼のために大谷の南地(南側)に土地を用意し住まわせたので南殿と呼ぶ。