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善鸞

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ぜんらん

 生没不詳。慈信房。親鸞聖人の息男で長男とも次男ともいわれる。建長の初期、東国門徒の間で諍論が生じたため親鸞聖人に代わって東下したがかえって異義にかたむき、建長八年六月二十七日(1256)親鸞聖人によって義絶された。 (御消息 P.754)
関東在国中の親鸞聖人は、自らの教団組織を持とうとする意思はなく、教えを乞う弟子に対する講師の役割に徹せられていた。しかし善鸞は関東で自らの教団組織を持ち生活基盤を築こうとした。そこで親鸞聖人の弟子の門徒を引き抜こうとして異義を説き関東の弟子と対立していったのであろう。

その後の善鸞については覚如の弟子乗専『最須敬重絵詞』第四巻の第一段に(*)

同じき三年には、法印(覚如) そのとき二十一のことにや。本願寺の先祖勧化したまう門下ゆかしくおぼゆるに、さることのたよりあることをよろこびて、しばらくいとまを南都の御所へ申賜いて、東国巡見しけるに、国はもし相州にや、余綾山中と云う処にして、風瘧をいたわる事侍るに、慈信房 元宮内卿善鸞 入来ありて退治のために、わが封(符)なりとぞ、さだめて験〈しるし〉あらんと自称し、あたえんとせらる。真弟如信ひじりも座せられけるに、法印申さく、いまだ若齢ぞかし、そのうえ病屈の最中も堅固の所存ありければ、おもいける様、おとさばわれこそおとさめ、この封(符)を受用せんこと、しかるべからず。ゆえは師匠のまさしき厳師にて座せらるれば、もだしがたきには似たれども、この禅襟としひさしく田舎法師となり侍れば、あなずらわしくもおぼゆ。しかるべくも、おもわぬうえ、大方、門流において、聖人の御義に順ぜず、あまつさえ堅固あらぬさまに、邪道をこととする御子になられて、別解別行の人にてましますうえは、今これを許容しがたく、粛清の所存ありければ、斟酌す、まず請け取りてのむ気色にもてなして、掌中におさめける。それをさすが、みとがめられけるにや、後日に、遺恨ありけるとなん。
 この慈信房は安心などこそ、師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ、今度東関下向のとき、法印常陸に村田と云うあたりを折節ゆきすぎけるに、ただいま大殿の御浜出でとて、男法師尼女たなびきて、むしと云ものをたれて、二三百騎にて鹿島へまいらせたまうとて、おびただしくののめく所をとおりあいけり。大殿と号しけるも辺土ながら、かの堺(境)なれば、先代守殿〈かみのとの〉をこそ、さも称すべけれども、すこぶる国中帰伏のいたりにやと、不思議にぞあざみける。かかる時も他の本尊をばもちいず、無碍光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せられけるとぞ。

とある。