操作

「念仏成仏」の版間の差分

提供: WikiArc

30行目: 30行目:
  
 
御開山は「教巻」で『無量寿経』は、仏の名号を体([[教巻#宗体を決示する|教巻 P.135]])とする経典であり「一乗究竟の極説」([[教巻#no7|教巻 P.138]])であると決示され、「行巻」では念仏の利益を「大利無上は一乗真実の利益なり」([[行巻#no77|行巻 P.188]]) と讃えておられる。<br />
 
御開山は「教巻」で『無量寿経』は、仏の名号を体([[教巻#宗体を決示する|教巻 P.135]])とする経典であり「一乗究竟の極説」([[教巻#no7|教巻 P.138]])であると決示され、「行巻」では念仏の利益を「大利無上は一乗真実の利益なり」([[行巻#no77|行巻 P.188]]) と讃えておられる。<br />
この一乗を承けて、[[補註10|大行]]である念仏を「一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり」([[行巻#P--195|行巻 P.195]]) と'''「[[誓願一仏乗]]」'''と呼ばれて一乗海釈([[行巻#P--195|行巻 P.195]]) を開顕されておられる。<br />
+
この一乗を承けて、[[補註10|大行]]である念仏を「一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ[[誓願一仏乗]]なり」([[行巻#P--195|行巻 P.195]]) と'''「[[誓願一仏乗]]」'''と呼ばれて一乗海釈([[行巻#P--195|行巻 P.195]]) を開顕されておられる。<br />
この[[補註10|大行]]である念仏が、あらゆる衆生を成仏せしめる誓海一仏乗の教法であるから「念仏成仏」とされたのであった。→[[誓願一仏乗]]
+
この[[補註10|大行]]である念仏が、あらゆる衆生を成仏せしめる誓願一仏乗の教法であるから「念仏成仏」とされたのであった。→[[誓願一仏乗]]
  
 
この'''[[誓願一仏乗]]'''に乗託することを大船に譬えて、大行を顕す「行巻」で、
 
この'''[[誓願一仏乗]]'''に乗託することを大船に譬えて、大行を顕す「行巻」で、

2019年10月20日 (日) 07:26時点における版

ねんぶつ-じょうぶつ

 阿弥陀仏は、第十八願

至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)
至心信楽して、わが国に生ぜんと(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)

と、念仏する者を浄土へ生まれさせると誓願されているから、本願を信じて念仏を称え往生することを念仏往生という。
「行巻」ではインド、中国、日本の七高僧と諸師方の論・釈を引かれ、『五会法事讃』の、

念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。(行巻 P.172)

の文を引文されておられる。 そして最後に法然聖人の『選択集』の結論である三選の文を引かれ、

称名必得生(しょうみょう-ひっとくしょう) 依仏本願故(えぶつ-ほんがんこ)。(称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに)(行巻 P.186)

と、「称名必得生」の念仏往生を明かされた。 そしてこの「依仏本願故」の意を決釈して、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。 (行巻 P.186)

と、念仏往生とは、本願力の回向によって一切衆生を成仏させる「念仏成仏」のであると結論された。念仏往生とは念仏成仏の誓願一仏乗の教法であった。『浄土論』『論註』の本願力の示唆により、法然聖人の示された不回向(選択本願念仏集(P.1197)とは本願力回向のことであるとみられたのであろう。
「浄土和讃」で、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)

と、浄土真宗は念仏して成仏する「念仏成仏」の法義であるとされておられる。

御開山は「教巻」で『無量寿経』は、仏の名号を体(教巻 P.135)とする経典であり「一乗究竟の極説」(教巻 P.138)であると決示され、「行巻」では念仏の利益を「大利無上は一乗真実の利益なり」(行巻 P.188) と讃えておられる。
この一乗を承けて、大行である念仏を「一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり」(行巻 P.195) と誓願一仏乗と呼ばれて一乗海釈(行巻 P.195) を開顕されておられる。
この大行である念仏が、あらゆる衆生を成仏せしめる誓願一仏乗の教法であるから「念仏成仏」とされたのであった。→誓願一仏乗

この誓願一仏乗に乗託することを大船に譬えて、大行を顕す「行巻」で、

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。(行巻 P.189)

とされ『浄土文類聚鈔』では、

いま(ねが)はくは道俗等、大悲の願船には清浄の信心を順風とし、無明の闇夜には、功徳の宝珠を大炬とす。心(くら)(さとり)(すく)なきもの、敬ひてこの道を(つと)めよ。 (浄文 P.484)

と、功徳の宝珠である念仏の法は清浄の信心を順風とする「大悲の願船」である誓願一仏乗の教法なのであった。この大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。
『正像末和讃』では、

智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし (正像 P.606)
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ (正像 P.606)

と、念仏(なんまんだぶ)は無明の闇を破する智慧であり、生死を度す船筏であると和讃されておられる。

「信巻」大信釈で、

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻 P.211)

と、第十八願を「出於念仏往生之願(念仏往生の願より出でたり)」される所以である。

誓願一仏乗
四法
八万四千の法門
大行・真実行
大信・真実信