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「南無阿弥陀仏」の版間の差分

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 阿弥陀仏は、みずからの名を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。
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南無阿弥陀仏〔なんまんだぶ〕は、生死を超えた真実一如の領域から届いて、私たちの頑迷を破り、真実の何たるかを知らせる阿弥陀仏そのものであり、また救いを告げる阿弥陀仏の名のりである。その名を称え、名にこめられた阿弥陀仏の本願を聞くとき、生きることは阿弥陀仏の教えに包まれ、育てられ続けることであり、この世の「いのち」の終わるときは、浄土へ生まれてさとりを実現することであると信知せしめられていく。こうして死ぬまで愛憎の煩悩は燃え続けるのだが、浄土を一定と期するものは生死を超える道に迷うことはなくなります。名を称えれば、その名によって無明の闇を破られ、往生成仏の志願を満たされていくといわれるのである。
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: しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の[[一切の志願]]を[[満てたまふ]]。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。 [[hwiki:称名破満の釈義|[注]]]
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 阿弥陀仏は、みずからの名を称える者を[[浄土]]に往生せしめると[[本願]]に「[[乃至十念]]」と誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。<br />
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南無阿弥陀仏〔なんまんだぶ〕は、生死を超えた真実一如の領域から届いて、私の頑迷を破り、真実の何たるかを知らせる阿弥陀仏そのものであり、また救いを告げる阿弥陀仏の名のりであった。その<kana>名(みな)</kana>を称え、名にこめられた阿弥陀仏の本願を聞くとき、生きることは阿弥陀仏の教えに包まれ、育てられ続けることであり、この世の「いのち」の終わるときは、[[浄土]]へ生まれてさとりを実現することであると[[信知]]せしめられていく。こうして死ぬまで愛憎の<kana>[[煩悩]](ぼんのう)</kana>は燃え続けるのだが、浄土を[[一定]]と[[期す]]るものは生死を超える道に迷うことはなくなる。名を称えれば、その名によって[[無明]]の闇を破られ、往生成仏の[[志願]]を満たされていくといわれるのである。 (wikidarmaと聖典セミナーから)<br />
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御開山は、この意を「行文類」で、
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: しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の[[一切の志願]]を[[満てたまふ]]。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。 ([[行巻#no12|行巻 P.146]]) [[hwiki:称名破満の釈義|[注]]]
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と、いわれておられる。<br />
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善導大師は、南無阿弥陀仏の六字の意味を『観経疏』玄義分で次のように解釈されておられる。
 
;善導大師の六字釈
 
;善導大師の六字釈
: またいはく、「'''南無'''といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。'''阿弥陀仏'''といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。  
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:言南無者 即是帰命。亦是発願回向義。 言阿弥陀仏者 即是其行。以斯義故 必得往生。
上記の善導大師の願行具足の六字釈を承けて、御開山は独自の六字釈をされた。
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: 「'''南無'''といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。'''阿弥陀仏'''といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。
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:現代語
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::南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。 
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善導大師は、南無阿弥陀仏には南無という願と阿弥陀仏という往生する行が具足しているから、よく往生の行となるとされた。この願行具足の六字釈を承けて、御開山は独自の六字釈を展開された。
  
 
;親鸞聖人の六字釈
 
;親鸞聖人の六字釈
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: 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
 
: 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
 
:即是其行といふは、すなはち[[選択本願]]これなり。
 
:即是其行といふは、すなはち[[選択本願]]これなり。
:必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
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:必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。([[行巻#P--170|行巻 P.170]])
  
 
: 『経』(大経)には「[[即得]]」といへり、釈([[十住毘婆沙論_(七祖)#P--15|易行品 十五]])には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する[[時剋の極促]]を[[光闡]]するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
 
: 『経』(大経)には「[[即得]]」といへり、釈([[十住毘婆沙論_(七祖)#P--15|易行品 十五]])には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する[[時剋の極促]]を[[光闡]]するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

2017年8月2日 (水) 20:19時点における版

なもあみだぶつ

 かぎりない寿命と光明の徳を有する阿弥陀仏帰依(きえ)信順するという言葉。南無とは衆生帰命を意味するが、それさえ阿弥陀仏が成就(じょうじゅ)回向されることをあらわして南無阿弥陀仏の六字全体を仏の名号とする。→名号 (みょうごう)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

編集中

 阿弥陀仏は、みずからの名を称える者を浄土に往生せしめると本願に「乃至十念」と誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。
南無阿弥陀仏〔なんまんだぶ〕は、生死を超えた真実一如の領域から届いて、私の頑迷を破り、真実の何たるかを知らせる阿弥陀仏そのものであり、また救いを告げる阿弥陀仏の名のりであった。その(みな)を称え、名にこめられた阿弥陀仏の本願を聞くとき、生きることは阿弥陀仏の教えに包まれ、育てられ続けることであり、この世の「いのち」の終わるときは、浄土へ生まれてさとりを実現することであると信知せしめられていく。こうして死ぬまで愛憎の煩悩(ぼんのう)は燃え続けるのだが、浄土を一定期するものは生死を超える道に迷うことはなくなる。名を称えれば、その名によって無明の闇を破られ、往生成仏の志願を満たされていくといわれるのである。 (wikidarmaと聖典セミナーから)

御開山は、この意を「行文類」で、

 しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。 (行巻 P.146) [注]

と、いわれておられる。
善導大師は、南無阿弥陀仏の六字の意味を『観経疏』玄義分で次のように解釈されておられる。

善導大師の六字釈
言南無者 即是帰命。亦是発願回向義。 言阿弥陀仏者 即是其行。以斯義故 必得往生。
 「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。
現代語
南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。

善導大師は、南無阿弥陀仏には南無という願と阿弥陀仏という往生する行が具足しているから、よく往生の行となるとされた。この願行具足の六字釈を承けて、御開山は独自の六字釈を展開された。

親鸞聖人の六字釈
 しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の(こえ)なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の(こえ)なり。悦税二つの(こえ)は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。
必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。(行巻 P.170)
 『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
現代語
 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。
説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。
「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。
『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。
「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。










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