「末法灯明記」の版間の差分
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故知、今時是像法最末時也。彼時行事、既同末法。 | 故知、今時是像法最末時也。彼時行事、既同末法。 | ||
:ゆゑに(知んぬ) 今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。 | :ゆゑに(知んぬ) 今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。 | ||
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若有戒法、可有破戒。既無戒法。由破何戒。而有破戒。破戒尚無、何況持戒。 | 若有戒法、可有破戒。既無戒法。由破何戒。而有破戒。破戒尚無、何況持戒。 | ||
:もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。 | :もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。 |
2018年7月10日 (火) 09:26時点における版
- 化身土巻で引文されておられる『末法灯明記』の乃至および略された部分を復元した。御開山の引文と現行の「末法灯明記」と文に多少の違いはあるが趣旨は変わらないと思ふ。読下し文は註釈版の読みを依用。乞校正。
『末法灯明記』
本朝沙門最澄撰
夫範衛一如、以流化者法王、光宅四海、以埀風者仁王。
然則、仁王法王、互顕而開物、真諦俗諦、逓因而弘教。
所以玄籍盈乎宇内、嘉猷溢乎天下。
爰愚僧等、率容天網、府仰厳科。未遑寧処。
然法有三時、人亦有三品。化制之旨、依時興替。毀讚之文、遂人取捨。夫三古之運、盛衰不同。
後五之機、慧悟又異、豈拠一途斉、復就一理整乎。
- 後五の機、慧悟また異なり。あに一途によつて済はんや、(また)一理について整さんや。
故詳正像末之階降、或(詳)彰破持僧之行事。於中有三、初決正像末、次定破持僧之事。後挙教比例。
- ゆゑに正・像・末の旨際(階降)を詳らかにして、試みに破持僧の(行)事を彰さん。なかにおいて三あり。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。
初決正像末者、(出)諸説不同。且述一説。
- 初めに正・像・末を決するに、諸説を出すこと同じからず。しばらく一説を述せん。
大乗基、引賢劫経言、仏涅槃後、正法五百年、像法一千年。此千五百年後、釈迦法滅尽。
- 大乗基、『賢劫経』を引きていはく、〈仏涅槃ののち、正法五百年、像法一千年ならん。この千五百年ののち、釈迦の法滅尽せん〉と。
不言末法。準余所説、尼不修八敬而懈怠故、法不更増。故不依彼。
- 末法をいはず。余の所説に准ふるに、尼、八敬に順はずして懈怠なるがゆゑに、法更増せず。ゆゑに彼によらず。
又涅槃経、於末法中、有十二万大菩薩衆、持法不滅。此拠上位故亦不(同)用。
- また『涅槃経』に、〈末法のなかにおいて十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せず〉と。これは上位によるがゆゑにまた同じからず。
問云若爾者、千五百年之内行事如何。
- 問(云)ふ。もししからば千五百年のうちの行事いかんぞや。
答、按大術経、仏涅槃後、初五百年、大迦葉等七賢聖次第住持、正法不滅、五百年後、正法滅尽。
至六百年、九十五種外道競起。馬鳴出世、伏諸外道。
- 六百年に至りてのち、九十五種の外道競ひ起らん。馬鳴世に出でてもろもろの外道を伏せん。
七百年中、龍樹出世、摧邪見幢。
- 七百年のうちに、龍樹世に出でて邪見の幡を摧かん。
於八百年、比丘縦逸、僅一二人、有得道果。
- 八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二(人)道果を得るものあらん。
至九百年、奴為比丘、亦婢為尼。
- 九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。
一千年中、聞不浄観、瞋恚不欲。
- 一千年のうちに、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。
千一百年、僧尼嫁娶、(僧)毀謗毗尼。
千二百年、諸僧尼等、倶有子息。
- 千二百年に、諸僧尼等ともに子息あらん。
千三百年、袈裟変白。
- 千三百年に、袈裟変じて白からん。
千四百年、四部弟子、皆如猟師、売三宝物。
- 千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。
(爰曰)千五百年、倶腅弥国有二僧、互起是非、遂相殺害。仍教法蔵於竜宮也。涅槃十八、及仁王等、復有此文。
- ここにいはく、千五百年に拘睒弥国にふたりの僧ありて、たがひに是非を起してつひに殺害せん、よつて教法竜宮に蔵まるなり〉と。『涅槃』の十八および『仁王』等にまたこの文あり。
準此等経文、千五百年後、無有戒定慧也。故大集経五十一言、我滅度後、初五百年、諸比丘等、於我正法、解脱堅固。初得聖果名為解脱。
- これらの経文に準ふるに、千五百年ののち戒・定・慧あることなきなり。ゆゑに『大集経』の五十一にいはく、〈わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において解脱堅固ならん。初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。
次五百年、禅定堅固。次五百年、多聞堅固。次五百年、造寺堅固。後五百年、闘諍堅固、白法隠没云云。
此意、初三箇五百年、如次、戒定慧三法堅固得住。
- この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。
即上所引、正法五百、像法一千、二時是也。
- すなはち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。
造寺以後、幷是末法。故基般若会釈云、正法五百年、像法一千年、此一千五百年後、行之正法滅尽。
- 造寺以後は、ならびにこれ末法なり。ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち(行之)正法滅尽せん〉と。
故知、造塔以後、幷属末法。
- ゆゑに知んぬ、(造塔)以後はこれ末法に属す。
問云若爾者、今世正当何時。
- 問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。
答滅後年代、雖有多説、且挙両説。一 法上法師等、依周異記言、仏当第五主穆王満五十三年壬申入滅。
若依此説、従其壬申至我延暦二十年辛巳、一千七百五十歳。
- もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。
二 費長房等、依魯春秋、仏当周第二十一主匡王班四年壬子入滅。
若依此説、従其壬子至我延暦二十年辛巳、一千四百十歳。
- もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。
故知、今時是像法最末時也。彼時行事、既同末法。
- ゆゑに(知んぬ) 今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。
然則、於末法中、但有言教、而無行証。
- しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。
若有戒法、可有破戒。既無戒法。由破何戒。而有破戒。破戒尚無、何況持戒。
- もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。
故大集云、仏涅槃後、無戒満州云云。
- ゆゑに『大集』にいはく、〈仏涅槃ののち無戒州に満たん〉と、云々。
問云、諸経律中、広制破戒、不聴入衆。破戒尚爾、何況無戒。而今重論末法無戒。豈無瘡自以傷哉。
- 問(云)ふ。諸経律のなかに、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして、みづからもつて傷まんや。
(答)此理不然。正像末法所有行事、広載諸経。内外道俗、誰不披諷。豈貪求自身邪活、隠蔽持国之正法乎。
但今所論、末法唯有名字比丘。此名字為世真宝。更無福田。設末法中、有持戒者、既是恠異。如市有虎、此誰可信。
問云、正像末事、已見衆経。末法名字、為世真宝、出何聖典。
- 問ふ。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、(何)聖典に出でたりや。
答大集第九云、譬如真金為無価宝。若無真金者、銀為無価宝。若無銀者、鍮石偽宝為無価宝。若無偽宝、赤白銅鉄、白鑞鉛錫、為無価宝。如是、一切世間、仏宝無価。
- 答ふ。『大集』の第九にいはく、〈たとへば真金を無価の宝とするがごとし。もし真金なくは銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅・鉄・白錫・鉛(錫)を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども仏法無価なり。
若無仏宝、縁覚無上。若無縁覚、羅漢無上。若無羅漢、余賢聖衆、以為無上。若無余賢聖衆、得定凡夫、以為無上。
- もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆もつて無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫もつて無上とす。
若無得定凡夫、浄持戒、以為無上、若無浄持戒、漏戒比丘、以為無上。
- もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもつて無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもつて無上とす。
若無漏戒、剃除鬚髪、身著袈裟、名字比丘、為無上宝。比余九十五種異道、最為第一。応受世供、為物福田。
何以故、破能身、衆生所怖畏故。若有護持養育安置、是人不久、得住忍地。{已上経文}
此文中、有八重無価。所謂、如来、縁覚、声聞及前三果、得定凡夫、持戒、破戒、無戒名字、如其次第、各為正像末之時無価宝也。
- この文のなかに八重の無価あり。いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正・像・末の時の無価の宝とするなり。
初四正法時、次三像法時、後一末法時。由此明知、破戒無戒、咸是真宝。
- 初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これによりてあきらかに知んぬ、破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり。
問云、伏観前文、破戒名字、莫不真宝。何故、涅槃大集等経、国王大臣、供破戒僧、国起三災、遂生地獄。
- 問ふ。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。なんがゆゑぞ『涅槃』と『大集経』に、《国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起り、つひに地獄に生ず》と。
破戒尚爾、何況無戒。爾如来於一破戒、或毀或讚、豈一聖之文、有両判之失。
- 破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるに如来、一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あるをや。
答此理不然、涅槃等経、且制正法之世破戒。非於像末代之比丘。其名雖同、而時有異。随時制許。是大聖旨。故於世尊、無両判失。
- 答ふ。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の(世の)破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといへども、時に異あり。時に随ひて制許す。これ大聖(釈尊)の旨なり。ゆゑに世尊において両判の失ましまさず。
問云若爾、何知涅槃等経、但制止正法所有破戒、非像末僧。
- 問ふ。もししからばなにをもつてか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像・末の僧にあらずとは。
答如所引大集所説、八重真宝。是其証也。皆為当時無価宝故。但正法時、破戒比丘、穢清浄衆。故、仏固禁制不入衆。
- 答ふ。引くところの『大集』所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当りて無価となすゆゑに。ただし正法の時の破戒比丘は、清浄衆を穢す。ゆゑに仏固く禁制して衆に入れず。
所以然者、涅槃第三云、如来今以無上正法、付属諸王、大臣、宰相、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、是諸国王大臣及四部衆、応当勧励諸学人等、令得増長上定戒智慧、若有不学是三品法懈怠
- しかるゆゑは、『涅槃』の第三にのたまはく、〈如来いま無上の正法をもつて、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼(優婆塞、優婆夷)に付属したまへり。[この諸国王大臣及び四部の衆、まさに諸の学人等を観励して、増長上の定戒智慧を得しむべし、もしこの三品の法を学せず懈怠し]
破戒、毀正法者、王者大臣、四部之衆、応当苦治。
如是王臣等、得無量功徳、
- かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。
{
当無有小罪、我涅槃後、随其方面、有持戒比丘、護持正法、見壊法者、即能駈遣、呵嘖恋治、
- まさに小罪有ること無かるべし。わが涅槃の後、その方面に隨ひ、持戒の比丘有りて、正法を護持し、法を壊する者を見ては、即ち能く駈遣し、呵嘖し懲治せん。
}
是我弟子、真声聞也、当知、是人得福無量。
- これわが弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん〉と。
{
若善比丘、見壊法者、置不呵責駈遣挙処、当知、是人仏法中怨。
又大集経二十八云、若有国王、見我法滅、捨不擁護、於無量世、修施戒慧、悉皆滅失、其国内出三種不詳事、乃至命終生大地獄、又同経三十一云、仏言、大王守護如法比丘一人、不護無量諸悪比丘、我今唯聴二人掌護、一羅漢、具八解脱、二須陀洹人云云、
- もし善比丘ありて、法を壊する者を見て、置きて呵責し駈遣し挙処せずんば、まさに知るべし。この人は仏法の中の怨なり。
- 又『大集經』の二十八に云く。「若し国王有りて、わが法滅するを見、捨てて擁護せずんば、無量世に於て、施戒慧を修すも、ことごとくみな滅失して、その国内に三種の不詳事を出し、乃至命終して大地獄に生ず」 と。又同經の三十一に云く。「仏の言く。大王如法の比丘一人を守護して、無量の諸の悪比丘を護らざれ。我れ今ただ二人の掌護を聴す。一には羅漢、八解脱を具す。二には須陀洹の人なり」。
}
如是制文(法)、往往数多。皆是正法明之制文。非像末教。所以然者、像季末法、不行正法、無法可毀。
- かくのごときの制文の法、往々衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像・末の教にあらず。しかるゆゑは、像季・末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。
何名毀法。無戒可破、誰名破戒。又其時大王、無行而可護。由何出三災及失施戒慧。
- なにをか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。たれをか破戒と名づけん。またそのとき大王、行として護るべきなし。なにによりてか三災を出し、および(施)戒慧を失せんや。
又像末時、無証果人。如何彼明聴護二聖。故知、上所説、皆約正法世、有持戒時、有破戒故。
- また像・末には証果の人なし。いかんぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。ゆゑに知んぬ、上の所説はみな正法の世に持戒あるときに約して、破戒あるがゆゑなり。
次像法千年中、初五百年、持戒漸減、破戒漸増。雖有戒行、而無証果。
- 次に像法千年のうちに、初めの五百年には持戒やうやく減じ、破戒やうやく増せん。戒行ありといへども証果なし。
故涅槃七云、迦葉菩薩、白仏言、世尊、如仏所説、有四種魔。若魔所説及仏所説、我当云何而得分別。有諸衆生随遂魔行。
- ゆゑに『涅槃』の七にのたまはく、〈迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、《世尊、仏の所説のごときは四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、われまさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。
復有随順仏所説者、如是等輩、復云何知。
- また仏説に随順することあらば、かくのごときらの輩、またいかんが知らん》と。
仏告迦葉、我般涅槃、七百歳後、是魔波旬漸起、沮壊我之正法。譬如猟師、身服法衣。魔王波旬、亦復如是。
- 仏、迦葉に告げたまはく、《われ涅槃して七百歳ののちに、これ魔波旬やうやく起りて、まさにしきりにわが正法を壊すべし。たとへば猟師の身に法衣を服せんがごとし。魔波旬もまたまたかくのごとし。
作比丘像、比丘尼像、優婆塞優婆夷像、亦復
- 比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像とならんこと、またまたかくのごとしと。
{
化作須陀洹身、乃至化作阿羅漢身及仏色身、魔王以此有漏之形、作無漏身、壊我正法、是魔波旬、為壊正法、当作是言、仏在舎衛国祇陀精舎。
- 須陀洹の身を化作し、乃至阿羅漢の身及び仏の色身を化作せん。魔王この有漏の形を以て、無漏の身を作して、わが正法を壊せん。この魔波旬、正法を壊せんが爲に、当にこの言を作すべし。仏舍衛国の祇陀精舍に在りて、
}
聴諸比丘、受畜奴婢僕従、牛羊象馬、乃至銅鉄釜鍑、大小銅盤、所須之物、耕田種植、販売市易、儲積穀米。
- ”もろもろの比丘、奴婢、僕使、牛・羊・象・馬、乃至銅鉄釜鍑、大小銅盤、所須のものを受畜し、耕田・種植、販売・市易して、穀米を儲くることを聴すと。
如是衆事、仏大慈故、憐愍衆生、聴畜之。如是経律、悉是魔説云云。
- かくのごときの衆事、仏、大悲のゆゑに衆生を憐愍してみな畜ふることを聴さん”と。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり》〉と、云々。
既云七百歳後、波旬漸起。故知、彼時比丘、漸貪畜八不浄物。作此妄説、即是魔説也。此等経中、明指年代、具説行事。不可更疑。且挙一文、余皆準知。
- すでに〈七百歳ののちに波旬やうやく起らん〉といへり。ゆゑに知んぬ、かの時の比丘、やうやく八不浄物を貪畜せんと。この妄説をなさん、すなはちこれ魔の流なり。これらの経のなかにあきらかに年代を指して、つぶさに行事を説けり。さらに疑ふべからず。それ一文を挙ぐ、余みな準知せよ。
次像法後半、持戒減少、破戒巨多。故涅槃六云、
- 次に、像法の後半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。ゆゑに『涅槃』の六にのたまはく、
{
仏告菩薩言、善男子、譬如迦羅林、其樹衆多、於是林中、唯有一樹、名鎮頭迦、是迦羅樹、与鎮頭迦樹、二果相似、不可分別、其果熟時、有一女人、悉皆拾取、鎮頭迦果、唯有一分、迦羅迦果、乃有九分、是女不識持来、詣市而衒賷之、凡愚小児、復不別故、買迦羅迦、噉已命終、有智人輩、聞是事已、問是女人、汝於何処、持是果来、是時女人、即示方所、諸人即言、如是方所、多有無量迦羅迦樹、唯有一根鎮頭迦樹、諸人知已、笑而捨去、善男子、大衆之中、八不浄法、亦復如是、於是衆中、多有受用如是八法、唯有一人清浄持戒、不受如是八不浄法、善知諸人受畜非法、然而同事、不相捨離、如彼林中一鎮頭迦樹。
- 仏、菩薩に告げてのたまはく。〈善男子、たとへば迦羅林、その樹衆多なり。その林中に於て、ただ一樹あり。鎭頭迦と名く。この迦羅樹と、鎭頭迦樹と。二果あひ似て、分別すべからず。その果熟する時、一の女人有りて、ことごとく皆拾ひ取る。鎭頭迦果は、ただ一分有り。迦羅迦果は、乃ち九分有り。この女識らずして持ち来り、市に詣りて之を衒賷す。凡愚小児、また別たざるが故に、迦羅迦を買ひ、噉ひ已りて命終す。有智の人の輩、是の事を聞き已りて、この女人に問ふ。なんじ何の処より、この果を持ち來ると。この時女人、すなわち方所を示す。諸人即ち言く。かくの如き方所には、多く無量の迦羅迦樹有りて、ただ一根の鎭頭迦樹有りと。諸人知り已り、笑ひて捨て去さるが如し。善男子、大衆の中の、八不浄の法も、またかくの如し。この衆中に於て、多くこの如きの八法を受用することあり。ただ一人の清浄持戒なる有りて、かくの如きの八不浄の法を受けず。善く諸人の非法を受蓄することを知りて、しかも事を同くして、相捨離せず。彼の林中の一の鎭頭迦樹の如くならん〉と。
}
又十輪経云、若依我法、出家造作悪行。此非沙門、自称沙門、又非梵行、自称梵行。
- また『十輪』にのたまはく、〈もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずしてみづから沙門と称し、また梵行にあらずしてみづから梵行と称せん。
如是比丘、能開示一切天竜夜叉、一切善法功徳伏蔵、為衆生善法識。
- かくのごときの比丘、よく一切天・竜・夜叉、一切善法功徳の伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。
雖不少欲知足、剃除鬚髪、被著法服。以是因縁故、能為衆生、増長善根。於諸天人、開示善道。
- 少欲知足ならずといへども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもつてのゆゑに、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天・人において善道を開示せん。
乃至破戒比丘、雖是死人、而戒余勢、猶如牛黄。
- 乃至破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、しかも戒の余才、牛黄のごとし。
此牛雖死、而人故取之。亦如麝香死後有用云云。
- これ(牛)死するものといへども、人ことさらにこれを取る。また麝香ののちに用あるがごとし〉と、云々。
既云迦羅林中、有一鎮頭迦樹。此喩像運已衰、破戒満世、僅有一二持戒比丘。
又云破戒比丘、雖是死人、猶如麝香死而有用、死而有用。為衆生善知識。
- またいはく、〈破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、なほ麝香の死して用あるがごとし。衆生の善知識となる〉と。
明知、此時漸許破戒為世福田。同前大集。
- あきらかに知んぬ、このときやうやく破戒を許して世の福田とす。前の『大集』に同じ。
次像季後、全是無戒、仏知時運、為済末俗、讚名字僧、為世福田。
- 次に、像季の後は、まつたくこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済はんがために名字の僧を讃めて世の福田としたまへり。
又大集五十二云、若後末世、於我法中、剃除鬚髪、身著袈裟名字比丘、若有檀越、信施供養、得無量阿僧祇福。
- また『大集』の五十二にのたまはく、〈もし後の末世に、わが法のなかにおいて鬚髪を剃除し、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし檀越ありて捨施供養をせば、無量(阿僧祇)の福を得ん〉と。
又賢愚経云、若有檀越、将末来世、法埀欲尽、正使比丘、畜妻挟子、四人以上名字僧衆、応当敬視、如舎利弗、大目連等。
- また『賢愚経』にのたまはく、〈もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂として、まさしく妻を蓄へ、子を侠ましめん四人以上の名字の僧衆、まさに礼敬せんこと、舎利弗・大目連等のごとくすべし〉と。
又大集云、若打罵破戒無戒、身著袈裟 罪同出万億仏身血。
- またのたまはく、〈もし破戒(無戒)を打罵し、身に袈裟を着たるを知ることなからん、罪は万億の仏身より血を出すに同じからん。
若有衆生、為我法故、剃除鬚髪、被服袈裟、設不持戒、彼等悉已、為涅槃印又所印也。
- もし衆生ありて、わが法のために剃除鬚髪し袈裟を被服せんは、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり〉と。
{
是人猶能為諸人天、示涅槃道、是人便已於三宝中、心生敬信、勝於一切九十五種外道、其人必能速入涅槃、勝於一切在家俗人、唯除在家得忍辱人、是故、破戒天人応当供養。
- この人なほ能く諸の人天の爲に、涅槃の道を示す。この人便ち已に三宝の中において、心に敬信を生じて、一切の九十五種の外道に勝る。この人必ずよく速に涅槃に入り、一切在家の俗人に勝る。ただ在家の忍辱を得たる人を除く。是の故に、破戒なるも天人當に供養すべし。
}
又大悲経云、仏告阿難、於後末世、法欲滅時、当有比丘比丘尼、於我法中、得出家 已、手牽児臂、而共遊行、従酒家至酒家。於我法中、作非梵行。
- 『大悲経』にのたまはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて非梵行をなさん。
彼等雖為酒因縁、於此賢劫、一切皆当得般涅槃、斯賢劫中、当有千仏興出世、我為第四、次後弥勒、当補我処、乃至最後、盧遮如来、如是次第、汝応当知、
- かれら酒の因縁たりといへども、この賢劫のなかにおいて、[一切みなまさに、この賢劫中に般涅槃を得ん。] まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。[我を第四となす。] 次に、後に弥勒まさにわが処を補ぐべし。乃至最後盧至如来まで、かくのごとき次第に、なんぢまさに知るべし。
阿難、於我法中、但使性是沙門、汚沙門行、自称沙門。形似沙門、当有被著袈裟者、於賢劫中、弥勒為首、乃至盧遮如来、彼諸沙門、如是仏所、於無余涅槃、次第得入涅槃。無有遺余、
- 阿難わが法のなかにおいて、ただ性のみこれ沙門にして、沙門の行を汚し、みづから沙門と称せん、かたちは沙門に似て、ひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。
何以故。
- なにをもつてのゆゑに。
如是一切沙門中、乃至一称仏名、一生信者、所作功徳、終不虚設、我以仏智、測知法界故云云。
- かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり》〉と、云々。
{
維摩経云、仏十号中、聞初三福、仏若広説、経劫不尽。云云
- 『維摩経』に云く、〈仏の十号の中に、初の三を聞くの福、仏若し広く説かば、劫を経るも尽きず〉。
}
此等諸経、皆指年代、将末来世名字比丘、為世導師。
- これらの諸経に、みな年代を指して将来末世の名字の比丘を世の尊師とす。
若以正法時制文、而制末法世名字僧者、教機相乖、人法不合。
- もし正法の時の制文をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖き、人・法合せず。
由此律云、制非制者、是制断三明所記、豈有罪。此上引経配当已訖。
- これによりて『律』にいはく、〈非制を制するは、すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり〉と。この上に経を引きて配当しをはんぬ。
後挙教比例者、末法法爾正法毀壊、三業無記。四儀有乖。且如像法決疑経云。
- 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし。四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』にのたまふがごとし。
{以下、経名のみ引文されている部分}
若復有人、雖造塔寺、供養三宝、而不生敬重、請僧在寺、不供養飲食衣服湯薬、返更乞貸、食噉僧食、不問貴賤、一切専欲於衆僧中、作不饒益、侵損悩乱、如比人輩、永堕三途。
今見俗間、盛行此事、時運自爾、非人故爾、檀越既無檀越志、誰得誹僧無僧行。
- 〈もしまた人有りて、塔寺を造りて、三宝を供養すといえども、しかも敬重を生ぜず。僧を請じて寺に在るも、飲食衣服湯薬を供養せず。かえりてさらに乞貸して、僧食を食噉し、貴賤を問はず。一切もっぱら衆僧の中に於て、不饒益を作し、侵損悩乱せんと欲す。この如き人の輩、永く三途に堕す〉と。
- いま俗間を見るに、盛にこの事を行ず。時運自らしかなり。人の故にしかるに非ず。檀越すでに檀越の志無し。誰か僧に僧の行無きことを誹ることを得んや。
又遺教経云、
一日乗車馬、除五百日斉、当代行者之罪、何呈持斎之徳。
- 〈一日車馬に乗すれば、五百日の齊を除く〉 と。当代の行者の罪、何ぞ持斎の德を呈せんや。
又法行経云、
我弟子、若受別請、不得国王地上行、不得飲国王地水、五百大鬼、常遮其前、五千大鬼、常従罵言仏法大賊、
- 〈わが弟子、もし別請を受くは、国王の地上に行くことを得ざれ。国王の地水を飲むことを得ざれ。五百の大鬼、常に其の前に遮り、五千の大鬼、常に從ひ罵りて仏法の大賊なりと言はん〉 と。
鹿子母経云、
別請五百羅漢、猶不得名福田、若施一似像悪比丘、得無量福。
当代道人、已好別請、何処植福、持戒之人、豈加之哉、既不践王地上、亦不許飲王地水、五千大鬼、当罵大賊、嗟乎持戒僧衆、何於其改過乎、
- 〈五百の羅漢を別請せんは、なほ福田と名くることを得ず。もし一の似像の悪比丘に施せば、無量の福を得ん〉と。
- 当代の道人、すでに別請を好めり。何の処に福を植えんや。持戒の人、あにこの如くならんとすと。既に王の地上を踐まず。また王の地水を飲むことを許さず。五千の大鬼、まさに大賊なりと罵むべし。ああ、持戒の僧衆、何ぞこれにおいて過ち改めんや。
又仁王経云、
若我弟子、為官所使、都非我弟子、立大小僧統、共相摂縛、当爾之時、仏法滅没、是為破仏法、破国因縁云云
推仁王等、拝僧統、以為破僧之俗。
彼大集等、称無戒、以為済世之宝、豈留破国之蝗、還弃保家之宝。
須不分二類、共飡一味、僧尼不絶跡、鳴鐘不失時、然乃允末法之教、令有国之道。
- 〈もしわが弟子、官の為に使はれん所は、すべてわが弟子に非ず。大小の僧統を立てて、共に相攝縛せん。その時にあたりて、仏法滅没す。これを仏法を破し、国を破する因縁となす〉 と云云。
- 『仁王』等を推するに、僧統を拜する、以て破僧の俗となす。彼の『大集』等には、無戒を称して、以て済世の宝となす。あに破国の蝗を留め、還りて保家の宝を弃(す)てんや。
- すべからく二類(破戒と無戒)を分かたず、共に一味を飡して、僧尼跡を絶たず、鳴鐘、時を失せざるべし。しかればすなわち末法の教、国をたもたしむるの道に允(そぐ)はん。