「二尊教」の版間の差分
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浄土宗の開祖法然が、阿弥陀仏以外の仏に対する功徳行を'''捨'''て、'''閉'''じ、自力を'''閣''' (さしお) き、'''抛''' (なげう) って念仏に帰せよと説いたもの。念仏以外の自力の修行を排撃したものとして、日蓮が浄土宗批判の標語とした。(→[[gooj:捨閉閣抛|捨閉閣抛]]) | 浄土宗の開祖法然が、阿弥陀仏以外の仏に対する功徳行を'''捨'''て、'''閉'''じ、自力を'''閣''' (さしお) き、'''抛''' (なげう) って念仏に帰せよと説いたもの。念仏以外の自力の修行を排撃したものとして、日蓮が浄土宗批判の標語とした。(→[[gooj:捨閉閣抛|捨閉閣抛]]) | ||
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2024年11月12日 (火) 00:33時点における最新版
にそんぎょう
にそんぎょう 二尊教
といい、『観経』の内容には、釈尊が説く定散二善の法門である要門と、阿弥陀仏が顕す第十八願の念仏往生の法門である弘願とがあることを示している。これを二尊二教というが、善導は、二尊の教説がそれぞれ別なものではなく、ともに一つの教説を説き示しているとし、「散善義」に
- 「釈迦発遣して、指(おし)へて西方へ向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して」(信巻引文 註226)、
- 「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり」(化身土巻引文 註403)
等と述べている。これを二尊一致という。→発遣招喚。(浄土真宗辞典)
- 〔…〕内は林遊が付加した。
浄土門では阿弥陀一仏を尊崇して、あまり釈尊を重視しない。このことから聖道門からは浄土門では仏教の開祖である釈尊をないがしろにすると批判された。承元の法難の原因となった『興福寺奏状』では、第三に釈尊を軽んずる失として、
- 専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生[1]にして本師の名を忘れたること。(興福寺奏状#第三に釈尊を軽んずる失。)
と非難していた。また法然浄土宗に徹底して反対し論難したのは『法華経』で説かれる釈尊を最重視した日蓮さんであった。いわゆる三選の文の閣・抛・傍を糾弾して、捨閉閣抛
と非難した。
goo辞書より
浄土宗の開祖法然が、阿弥陀仏以外の仏に対する功徳行を捨て、閉じ、自力を閣 (さしお) き、抛 (なげう) って念仏に帰せよと説いたもの。念仏以外の自力の修行を排撃したものとして、日蓮が浄土宗批判の標語とした。(→捨閉閣抛)
御開山は、
- ①弥陀の本願まことにおはしまさば、②釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、③善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、④法然の仰せそらごとならんや。(歎異抄 P.833)
と述べられたと『歎異抄』の著者は記すのだが、浄土真宗は弥陀の本願が根源である。釈尊はその本願を『無量寿経』として説教されたのである。この本願を、仏教史上で初めて阿弥陀仏の「本願」が大事だと他力(利他力)といふことをあらわされたのは曇鸞大師である。御開山はこれを本願力回向として継承されているのであった。
現代の浄土真宗の布教では、明治期以降の近代仏教学の影響からか、2500年前のゴータマ・シッダッタ(釈尊)を嚆矢(こうし) (昔、中国で戦いを始めるとき、敵陣に向かって音の鳴り響く矢である かぶら矢を射たところから物事のはじまり。最初の意)とするのだが、浄土教ではその釈尊のさとりの内容を、大乗仏教の悉皆成仏の立場から「弥陀の本願」を説くのであった。
明治期以降の近代仏教学の隘路におちいった浄土真宗(教団名)の布教使は、これがわからんのです(笑
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:二尊二教
にそんにきょう/二尊二教
釈迦と弥陀の教説は教意が各別であるということ。西山派および真宗の説。二尊一教の対。証空は『観経』の内容について、釈迦教は要門(定散諸善)を説き、弥陀教は弘願(本願念仏)を説くといい、その上で両者の不二一体の関係を述べている。したがって、二尊教はいつまでも釈迦・弥陀別々の二教ではなく、究極的には弥陀一教に帰一するとする。証空の『観門要義鈔』には二尊教に能請所請・能説所説・能為所為の三義があるとする。つまり、念仏観仏両三昧を宗とする立場からすれば二尊二教、要門の立場からすれば二尊一教、弘願の立場からすれば一尊一教であるという。真宗では、『観経』正宗分は定散を説かれるから二尊二教とし、流通分では釈迦が念仏を付属しているから二尊の意が一致し、二尊一教であるとする。
【資料】『観経疏他筆鈔』、『観経玄義分楷定記』一、二、『観経玄義分秘鈔』一、二、『伝通記』玄義分記二、『玄義分略鈔』一、『糅鈔』一〇、『徹選択集私志記』上
【執筆者:笠島崇信】
- ↑ 末生。末世に生をうけた者。