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:「弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす」([[信巻本#no19|信巻 P.229]])
 
:「弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす」([[信巻本#no19|信巻 P.229]])
 
とあるように、阿弥陀如来の回向される「至心」(智慧)と欲生(慈悲)を成一した「信楽」である信心が、涅槃の信因(成仏)であることを'''唯'''(ただ)'''信'''のみといふ'''独'''特の涅槃の真因の法門に通'''達'''された、御開山の法門をいふ。その体は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」([[信巻本#P--232|信巻 P.232]])といふ、なんまんだぶである。</ref>をあらわす。
 
とあるように、阿弥陀如来の回向される「至心」(智慧)と欲生(慈悲)を成一した「信楽」である信心が、涅槃の信因(成仏)であることを'''唯'''(ただ)'''信'''のみといふ'''独'''特の涅槃の真因の法門に通'''達'''された、御開山の法門をいふ。その体は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」([[信巻本#P--232|信巻 P.232]])といふ、なんまんだぶである。</ref>をあらわす。
浄土真宗における往生成仏の正しき因は信心一つであるということ。
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浄土真宗における{{ULR|'''往生成仏'''の正しき因は信心一つ}}であるということ。
 
『正信偈』に、
 
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:正定の因はただ信心なり。 ([[行巻#P--206|行巻 P.206]])
 
:正定の因はただ信心なり。 ([[行巻#P--206|行巻 P.206]])
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: 信心の正因うることは
 
: 信心の正因うることは
 
: かたきがなかになほかたし ([[正像末和讃#no48|正像 P.608]])
 
: かたきがなかになほかたし ([[正像末和讃#no48|正像 P.608]])
等とある。また[[jds:称名正因|称名正因]]などの異安心に対し、安心論題に「信心正因」が設けられている。 →[[称名報恩]] (浄土真宗辞典)
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等とある。また[[称名正因]]などの異安心に対し、安心論題に「信心正因」が設けられている。 →[[称名報恩]] (浄土真宗辞典)
 
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信楽釈に、<br />
 
信楽釈に、<br />
 この心([[信楽]])はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず[[報土]]の正定の因となる (斯心者 即如来大悲心故 必成報土正定之因) ([[信巻本#P--235|信巻 P.235]]) とある。<br />
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 「[[正因]]」とは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわす。衆生を往生成仏せしめる名号法はすでに成就されているのだが、これをわたくしが[[正定業]] (正しく衆生の往生が決定する業因) として[[信受]]しなければ往生は決定しない。名号(なんまんだぶ)を[[信受]]することによって、わたくしの上に往生成仏の果を得べき[[業因]]が[[決定]]する。これを[[信心正因]]というのである。→[[安心論題/信心正因]]<br />
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 この心([[信楽]])はすなはち如来の[[大悲]]心なるがゆゑに、かならず[[報土]]の正定の因となる (斯心者 即如来大悲心故 必成報土正定之因) ([[信巻本#P--235|信巻 P.235]])
 信は[[阿弥陀仏]]から[[信受]]するものであるから「信巻」には出体釈がない。この意を稲城選恵和上は、水と波の関係に譬えておられた。水(名号:行)があるから波(信心)が立つのであり、水のない波はありえない。水があるから波が起こるのであって水(名号)のない単独の波(信心)というものはあり得ないのである。その意から御開山の示された信には出体(ものがら)がないのであった。→([[三法立題#syuttai|教・行・信・証の出体]])、→([[amida:他力の信の特色#no3|他力の信の特色]])<br />
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とあるように信心とは如来の[[大悲]]心である。<br />
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 「[[正因]]」とは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわす。この決定する[[時剋]]の一念を「[[信の一念]]」といふ。衆生を往生成仏せしめる大悲の名号法はすでに成就されているのだが、これをわたくしが[[正定業]] (正しく衆生の往生が決定する'''[[業因]]''') として[[信受]]しなければ往生は決定しない。名号(なんまんだぶ)を[[信受]]することによって、わたくしの上に往生成仏の果を得べき[[業因]]が[[決定]]する。これを[[信心正因]]というのである。それは阿弥陀仏の衆生[[済度]]の[[菩提心]]であり、衆生の上の'''[[願作仏心]]'''(仏にな〔作〕ろうと願わしめられる心)であった。→[[安心論題/信心正因]]<br />
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「信巻」の一念転釈には、
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 信は[[阿弥陀仏]]から[[信受]]するものであるから「信巻」には出体釈がない。この意を稲城選恵和上は、水と波の関係に譬えておられた。水(名号:行)があるから波(信心)が立つのであり、水のない波はありえない。水(体)があるから波(現象)が起こるのであって水(名号)のない単独の波(信心)というものはあり得ないのである。その意から御開山の示された信には出体(ものがら)がないのであった。→([[三法立題#syuttai|教・行・信・証の出体]])、→([[amida:他力の信の特色#no3|他力の信の特色]])<br />
 
 それはまた浄土真宗の信心とは煩悩の手垢のつかない、たまわりたる清浄な仏心であったからである。{{DotUL|仏心であるような信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物ではないのである。}}その意を先人は「信は仏辺に仰ぐ」とか→[[仰信]]と表現したのであった。
 
 それはまた浄土真宗の信心とは煩悩の手垢のつかない、たまわりたる清浄な仏心であったからである。{{DotUL|仏心であるような信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物ではないのである。}}その意を先人は「信は仏辺に仰ぐ」とか→[[仰信]]と表現したのであった。
  
:→[[三法立題]]
 
:→[[安心論題/信心正因]]
 
 
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:→[[仏願の生起本末]]
 
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2024年8月2日 (金) 12:32時点における最新版

しんじん-しょういん

唯信正因ともいい、唯信独達[1]をあらわす。 浄土真宗における往生成仏の正しき因は信心一つであるということ。 『正信偈』に、

正定の因はただ信心なり。 (行巻 P.206)

「信巻」に、

涅槃の真因はただ信心をもつてす。(信巻 P.229)

『正像末和讃』に、

不思議の仏智を信ずるを
 報土の因としたまへり
 信心の正因うることは
 かたきがなかになほかたし (正像 P.608)

等とある。また称名正因などの異安心に対し、安心論題に「信心正因」が設けられている。 →称名報恩 (浄土真宗辞典)

信楽釈に、

 この心(信楽)はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる (斯心者 即如来大悲心故 必成報土正定之因) (信巻 P.235)

とあるように信心とは如来の大悲心である。
 「正因」とは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわす。この決定する時剋の一念を「信の一念」といふ。衆生を往生成仏せしめる大悲の名号法はすでに成就されているのだが、これをわたくしが正定業 (正しく衆生の往生が決定する業因) として信受しなければ往生は決定しない。名号(なんまんだぶ)を信受することによって、わたくしの上に往生成仏の果を得べき業因決定する。これを信心正因というのである。それは阿弥陀仏の衆生済度菩提心であり、衆生の上の願作仏心(仏にな〔作〕ろうと願わしめられる心)であった。→安心論題/信心正因
「信巻」の一念転釈には、

金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。
この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。(信巻 P.252)

とある。
 信は阿弥陀仏から信受するものであるから「信巻」には出体釈がない。この意を稲城選恵和上は、水と波の関係に譬えておられた。水(名号:行)があるから波(信心)が立つのであり、水のない波はありえない。水(体)があるから波(現象)が起こるのであって水(名号)のない単独の波(信心)というものはあり得ないのである。その意から御開山の示された信には出体(ものがら)がないのであった。→(教・行・信・証の出体)、→(他力の信の特色)
 それはまた浄土真宗の信心とは煩悩の手垢のつかない、たまわりたる清浄な仏心であったからである。仏心であるような信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物ではないのである。その意を先人は「信は仏辺に仰ぐ」とか→仰信と表現したのであった。

称名報恩
三法立題
一念転釈
信心
仰信
聞即信
仏願の生起本末
疑蓋無雑
安心論題/信心正因

  1. 唯信独達(ゆいしん-どくたつ)。「三心字訓釈」に、
    「弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす」(信巻 P.229)
    とあるように、阿弥陀如来の回向される「至心」(智慧)と欲生(慈悲)を成一した「信楽」である信心が、涅槃の信因(成仏)であることを(ただ)のみといふ特の涅槃の真因の法門に通された、御開山の法門をいふ。その体は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(信巻 P.232)といふ、なんまんだぶである。