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「名体不二」の版間の差分

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:われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ
 
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と、味わっていたものであった。
 
と、味わっていたものであった。
本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる「我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰らじ」という句の味わいであろう。
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本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる「我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰(還)らじ」という句の味わいであろう。
  
 
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2022年1月2日 (日) 03:02時点における版

みょうたい-ふに

 阿弥陀仏の名号(みょうごう)とその仏体(ぶったい)とが一であること。名号が正覚(しょうがく)(さとり)の全体であり、名号を離れて阿弥陀仏の正覚のないことを示す。


 名号には仏徳のすべてが摂在しているから、名号と仏体とは一体不二であること。(安心決定 P.1386)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

名体不二

「名」とは南無阿弥陀仏名号。「体」とは阿弥陀仏という仏体のことで、両者は一つであって異なるものではないということ。南無阿弥陀仏の名号が阿弥陀仏という正覚の全体であり、名号を離れて阿弥陀仏の正覚がないということを示した語。(浄土真宗辞典) →安心論題/所帰人法

本願寺派の「浄土真宗の教章」には、

本尊
阿弥陀如来(あみだにょらい)南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)

とあるのも名体不二の意である。

名体不二

真宗および浄土宗西山派で、南無阿弥陀仏という名号と阿弥陀仏の正覚の本質(体)とが相即不二であることをいう。名体相即とも名体不離ともいう。(仏教学辞典)

西山派では仏体即行として名体不二を説くのだが、浄土真宗では、なんまんだぶの本願招喚の勅命の阿弥陀仏の呼び声を、聞える名号とその仏体としての名体不二という。これを先人は「勅命のほかに領解なし」といわれていた。
西山派から派生した一遍上人時宗では「となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」[1]と、信とさとりを混淆するのだが、浄土真宗ではあくまで世俗の凡愚の立場に立って信とさとりを混同しない。
これは御開山が、法然聖人の示された穢土と浄土の相対論に立っておられたからである。このことは帰命の解釈で西山派のような「帰還命根説」[2]を用いないことでも判る。 →帰命 →「相対の上の絶対」

『論註』では『智度論』の指月の譬(*) を引いて、名と体は異なるのではないか、と問答を設け、名即法と名異法を論じていた。

 問ひていはく、名をば法の指となす。指をもつて月を指すがごとし。もし仏の名号を称するにすなはち願を満つることを得といはば、月を指す指、よく闇を破すべし。もし月を指す指、闇を破することあたはずは、仏の名号を称すとも、またなんぞよく願を満てんや。
答へていはく、諸法万差なり。一概すべからず。名の法に即するあり。名の法に異するあり。名の法に即するとは、諸仏・菩薩の名号、般若波羅蜜、および陀羅尼の章句、禁呪の音辞等これなり。 (論註 P.104)

とされ、譬えは一概(一般的に理解)するのではないとされた。月を指し示す指によって、我々は月を認識できる。その意味で月(法)と法を指す指(名号)とは即応しており、一体的に理解すべきものであるとされた。→水月を感じて…
仏の(みな)を称えることによって、仏が成就した誓願の功徳を領受できるとされたのである。本願力回向の仏からの回向の宗義においては〔なんまんだぶ〕の名号は阿弥陀如来が選択した名即法の「名体不二」の法であるとされたのであった。

御開山は元照の『弥陀経義』を引いて、

「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。(行巻 P.180)

とされ、阿弥陀仏は名号(なんまんだぶ)によって物(衆生)を摂取するのであるとされた。これを名体不二とも名号度生(みょうごうどしょう)(名号をもって衆生を済度する)ともいふ。

なお『論註』と同じように、月と指が相即する不一不異(非同復非異)なることを禅宗の良寛禅師は「月の詩」として詠っていた。禅門的には「月もなく、また指もなし」という表現であるが、浄土門では月あるが故に指あるであった。大愚と号した良寛禅師はただ子供たちと毬つきをしていただけではなく、一隻眼(ものの本質を見抜く智慧の眼)を具していたのであろう。愚禿とか大愚とかを名乗る人は、ある意味では恐ろしい人であった。なんまんだぶ なんまんだぶ

因指見其月
指に因って その月を見
因月弁其指
月に因って その指を弁ず。
此月与此指
この月とこの指と
非同復非異
同じに非ず また 異なるに非ず。
将欲誘初機
まさに初機を誘(いざな)わんと欲して
仮説箇譬子
仮に箇の譬子(ひし)を説く。
如実識得了
如実に識得しおわれば
無月復無指
月もなく また 指もなし。

「意訳」 指で月を示すとも月で指を知るとも考えられる。 この場合、月と指は同じものではないが、さりとて ちがったものでもない。 この比喩は初学者を導くため、仮に説かれるのだが、その道理がそのままわかれば、月もなく指もなく、本来無差別なることを会得するだろう。『良寛詩集』東郷豊治編著より

この「名体不二」の阿弥陀如来の衆生済度の意を浄土真宗の門徒は、

われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ

と、味わっていたものであった。 本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる「我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰(還)らじ」という句の味わいであろう。

不二
垂名示形
名号度生
南無阿弥陀仏
阿弥陀仏
名号
正覚
摂取
水月を感じて…

参照WEB版浄土宗大辞典の「名体不離」の項目


  1. この句を自己の見解(けんげ)として禅門の師に呈したところ、未徹在と評された。そこで工夫して、となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ、と詠ったところ認められたという逸話があるそうだが疑問が残る。前句の、声ばかりして、には、未だ聞いている自己が残っているとのことだが、それではあまりにも技巧的であり禅門の師家が和歌だけで相手の境位を判断するという話は不自然でもある。後世に作られた逸話であろう。
  2. 帰還命根(きげん-みょうこん)。西山派では、私の命は、私の命ではなく、宇宙的な根元的な如来の命であるということに目覚める。そういうことを知るのを「命根を源に帰す(帰還命根)」という意味で帰命という語を解釈する。『安心決定鈔』などに説かれているのだが、ひとつ間違うと十劫安心に陥りやすい。蓮如さんは盛んに「機」と「法」の機法一体論は強調されるのだが、西山派の衆生の往生と仏の正覚の機法一体説は用いられていない。