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疑蓋

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勅命のほかに領解なしから転送)

梯實圓和上の「化巻」「三経通顕(真仮分判)」で、

しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。(化巻 P.393)
についての「講義録」から疑蓋信楽についての部分を抜粋。先達は、疑蓋まじえわることなきを「勅命の他に領解なし」と云われていた。リンクや強調、註などは林遊において付した。


如来誓願疑蓋(ぎがい) (まじ)はることなきがゆゑにとのたまへるなり。(化巻 P.393)

 如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。

その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを(まじ)えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。

そこで「如来の誓願疑蓋雑(まじ)わることなし」(化巻 P.393) 故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃真因決定(しんいん-けつじょう)という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
(信巻の)三心一心の問答 (信巻 P.229)というのは、これが言いたいのです。

「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」(化巻 P.393)
ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた(様相・形相・すがたのこと)をというのです。だから信というのは法がにある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。(*)

信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」 (一多 P.678 意)、 ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです

「それでは具体的に信の物柄(ものがら)というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心というもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願、疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念 煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。

しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です[1]

「如来の誓願、疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまえるなり」(化巻 P.393) これは不思議な表現です。これはギリギリこうしか言えないのです。「如来の心に疑いがないのですか。それとも私の方に疑いがないのですか」この文章読んだらちょっと解らないでしょう。「如来の誓願に疑いがないのですか。私の心に疑いがないと言うのですか」と聞いたら「それは一つの事ではないか」と親鸞聖人は仰います。それは一つの事なのです。

如来に疑いがないという事は、私に疑いがないという事だし、私に疑いがないという事は、如来に疑いがないという事です。それが一つの事である様に法は聞けという事なのです。それが真宗の信心というものです。親鸞聖人の表現は相当に難しい。これは実に凄いギリギリの表現なのです。

私が「疑い無くなろう」なんて幾ら考えてもそれは無理です。人間の心は疑いの塊みたいなものですから、だからそんな人間の心を疑い無くしようと思ったって、それは無理というものです。死ぬまでその心の性は無くならないのです。それが人間の心の持ち前なのです。ですからどうしようもない。その自分の心をチャンと疑いのない綺麗な心にしろなんて仰ってはないのです。ですから疑いのない心というのは自分の方に見たらダメです。

それを「信は仏辺(ぶっぺん)に仰げ[2]と言うのです。信心は仏様の側に仰ぐのだと。信心は自分の方にありながら仏のものだから信は仏辺に仰げというのです。そして反対に「慈悲は仏様の側に見るのではない」というのです。如来のお慈悲といったら仏様の方を見ようとする。だから解らなくなるのです。

よく「仏様が解りません」といいます。仏様が解らないというのは仏様の側にお慈悲を見ようとするから解らなくなるのです。お慈悲は罪悪機中に味わうのです。お慈悲を味わうのは何処で味わうのかと言うと煩悩具足の相であり、死ぬまで煩悩具足凡夫であるという所に如来のお慈悲を味わうのです。

自分の心を見れば煩悩がよく解ります。煩悩があるという事は解るでしょう。その煩悩こそが如来様の大悲の救済の目当てなのですから、その煩悩が見えたらそれで如来の慈悲がそこに味わえる筈です。だから如来の慈悲は煩悩の中に見ていくのです。

そして信は煩悩の心の中に見ないで如来の側に仰ぐのです。これは反対なのです。普通は信心を自分の方に見て、そして慈悲を仏様の方に見ようとするでしょう。だから解らなくなるのです。昔の和上方というのは随分ご親切に仰っておられます。

断鎧師の詩だったと思うのですが「久しく妄心をせめて信心を求む」自分の迷いの心の中に信心をたずねる。しかしいつまでたっても見つからなかった。

それは丁度「断弦をせめて」この断弦というのは弦の切れたという事です。例えば弦の切れた琴を弾こうとしても弾かれません。弦の切れたバイオリンを弾いても音は出ない。ちょうど自分の妄念の心に信心をたずねてみても何の音も出て来ないという有名な詩があります。詩の正確な言葉は忘れましたがそういう内容です。[3]

だから信心というのは自分の心にたずねるものではなくて如来の本願を聞く事です。本願には「お前を疑いなく救う」と仰っている。間違いなく救うと仰っている。その摂取決定の心を聞いたら「そうしたら私はこのまま参らせて頂く」という事になりますから、それが疑蓋雑わる事なしという事なのです。

その「疑蓋雑わる事なし」という事を信と名付けるのだ。信というのは疑蓋間雑なしという事を信というのです。疑いという蓋を機と法との間に雑えないという事を信というのだ。だから信というのは疑いのない状態です。では積極的に何があるのだというとがあるのです。本願の言葉だけがあるのです。それを信というのだ。だから信心の徳というのは何かというと本願の徳なのです。本願の徳を信心の徳というのです。

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  1. 法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、「おほかた此信心の様を、人のこころえわかぬとおぼゆる也。心の ぞみぞみと身のけもいよだち、なみだもおつるをのみ信のおこると申すはひが事にてある也。それは歓喜・随喜・悲喜とぞ申べき。信といは、うたがひに対する心にて、うたがひをのぞくを信とは申すべき也。」と、いわれておられた。(*)
  2. 信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう、といふこと。

  3. 久向妄心問信心
    久しく妄心に向って 信心を問う
    如撥斷弦責清音
    断絃を撥して 清音を責むるが如し
    何知微妙梵聲響
    何ぞ知らん 妙微梵声のひびき
    嘹亮覺物遠且深
    劉(嘹)喨 物を覚らしむ 遠くかつ深し

     *『論註』妙声功徳釈に、「梵声悟深遠 微妙聞十方(梵声悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ)」とある。*劉喨(りゅうりょう)。声や音のさわやかで澄んでいるさま。