「浄信」の版間の差分
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2018年11月6日 (火) 22:22時点における版
じょうしん
Ⅱ 『交名牒(きょうみようちょう)』には「七条次郎入道洛中居住弟子」とある。また『末灯鈔』の諸本には「高田門人」と伝えるものもある。(消息 P.778)
第二十通の浄信との同異不明。(消息 P.794)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 浄信
きよらなか信心の意で、他力信心のこと。衆生の顛倒・うそいつわりの心からではなく、真如にかなった阿弥陀仏の清らかな願心から起こり、衆生に回向された信心であるからこのようにいう。
『浄土文類聚鈔』には、
- 「浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」(p.480)
とある。(浄土真宗辞典)
浄信という語の出拠は『無量寿経』の成就文の
の一念を、異訳の『無量寿如来会』では、
と一念の浄信とあるのが出拠である。「信」とは梵語プラサーダ(Prasada)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。「濁った心を浄化するはたらき」「心をしずめる」「清らかな心にならしめる」という意味を持つ。仏陀の教えを聞くことによって、心が清らかに澄みわたることをいう。
法然聖人は、本願成就文の一念(大経 P.41) を本願文の「乃至十念」の意から、行に信を摂した行の一念であるとされていた。しかし御開山は「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」の信心歓喜の信心の語から、本願成就文の一念の文は「信の一念」に親しいとされたのであった。そして、この『無量寿如来会』の「一念の浄信」の語から本願成就文の一念は、本願力回向の「信の一念」を意味する言葉であると御開山は領解されたのである。
➡ P:10,P:132,P:211,P:21,P:235,P:236,P:250,P:436,P:454,P:478,P:480,P:481,P:483,P:484,P:486,P:627,P:778,P:782,P:795,P:874,P:986