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年月日時の覚不覚を論じ

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ねんがつにちじのかくふかくをろんじ

  信心獲得の日時を記憶するか否かによって信心の有無を論ずること。(御裁断 P.1414)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『浄土真宗聖典全書』五「蓮如上人仰条々連々聞書」p.819 に、

一 信心決定のひとありけるが、彌陀をたのみたてまつりし其の年、又月日時をも忘侍(わすれはべ)りければ、蓮如上人へ申されけるは、たのみ(たてまつり)たりし月日を 不覚(おぼえざる)はいかゞ也と、云人ありと申人候、(うけたまえ)り候へば、(もっと)もと存じ候が、いかゞと不審申されければ、決定の心にもとづきて年久しき人もあるべし、年月時日を忘るゝ人あるべし。衆生はわすれたりとも、佛の御方には御わすれ有べからず、一度摂取ありては御すてなき事なりとぞおほせらる。

と、ある。
蓮如さんの「衆生はわすれたりとも、佛の御方には御わすれ有べからず、一度摂取ありては御すてなき」の語は「弥陀経讃」の、

十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

にある「摂取してすてざれば」の「国宝本」の左訓、

(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。

と、同意である。ともあれ浄土真宗のご法義は、過去の獲信を追憶するのではなく「今・ここ」での、ただ今の救済なのであった。