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行信不離

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「梯實圓和上の『御消息』26の講義録から抜書き」*脚注とリンク、文字の強調は林遊が付加した。

第十八願
原文:
設我得仏(せつが-とくぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )誹謗正法(ひほう-しょうぼう)
読下し:
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
意 訳:
たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。


 本願(第十八願)を見ると「至心信楽して、わが国に生ぜんと(おも)ひて、乃至十念せん」(*) とおっしゃる。この「至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく)」というのは「本当に疑い無く私の国に生まれる事ができると(おも)えよ」という事です。そこで本当に疑い無く浄土に生まれる事ができると(おも)う事を信心と言うのです。だから「私の国に生まれることができると欲えよ」と言われた本願の言葉を仰せの通りに素直に「はい」と頂いた時は本当に疑いなくお浄土へ生まれる事ができると(おも)っているでしょう、これを「信の一念」と言うのです。往生できると(おも)いとっているのだから、その時に往生ができるに決まっているのです。信の一念で往生は定まるのは決まっている。もし一念で往生が定まらなかったら「我が国に生まれると欲え」と言えないのです。ですから「本当に疑いなく私の国に生まれる事ができると欲えよ」と言われた言葉を頂いて、そのお言葉を仰せの通り疑い無く受け入れた信の内容は「必ず浄土に生まれる事ができる」と(おも)っているのですから、往生一定と欲う信心ですからこの信の一念に往生は定まる、これを平生業成と言います。信の一念往生は定まる。これを「一念即得往生」信の一念に往生する事に決定したという事です。

 しかしこれだけで本願は終わってはいません。「乃至十念せよ」すなわち十念に至るまでせよというのです。この「乃」という字は数を限定しない、不確定性を顕わした言葉なのです。日本語で言いますと「すなはち」と言うのです。日本語で接続詞として「すなわち」という言葉を使う場合に「」という字を書いて「すなわち」と言う場合と「則」という字を書いて言う場合と「乃」の字を書いて言う場合とがあるのです。全部接続詞としても用いる訳なのですが、ただし「即」と「則」はAという文章とBという文章を緊密に結び付けまして、Aならば必ずBであるといういう状態の時には「A即B」と言うのです。これを接続して何々するならば、Aを条件としてBを出す、AならばBであるという時には「則」の字を書くのです。AはすなわちBであるという時には「即」の字を使うのです。これは全部が全部ではないです。中国人というのは割合と言葉を上手に使う所がありまして、だから基本的にはこうだというだけで案外とあっちこっちと使ったりしております。基本的にはAはそのままBであるという時には「即」を、それからもしAならば必ずBであるというAが条件でBが結論である場合、しかもこれがイコールで結ばれるような場合は「則」を使う、これは「れば則」というのです、何々な「ればすなわち」何々であるという。ただし必ずしもそうではなくて「即」の字で何々す「ればすなわち」で現わす事も結構あるのです。あるのだけれども基本的にはこの二つは何れもAとBとを緊密に結び付けます。しかし「乃」という字で「すなわち」と読んだ時は結び付きが非常に大雑把だというのです。Aならば必ずBであるという訳ではない。Aならば殆どの場合はBであるという風に割と不確定な要素を含んでいる場合には「乃」と言って接続するのです。→乃至

 ここで「(すなわ)十念に至るまでせよ」と言ったのは十念と限定する訳ではなくて一念である場合もある、或いは百念である場合もある、千念である場合もある。また場合によったら一念さえもできない場合もある。こういう非常に不確定の要素を持っている状態の時に「乃」という字を使う。「(すなわ)ち十念に至るまで」というのは、翻訳すれば「たとえわずか十遍でも」という風な意味なのです。「たとえわずか十遍でもわたしの名前を念じなさい、わたしの名前を称えなさい」そうすると「本当に疑い無く私の国に生まれる事ができると欲うて、そしてたとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きなさい」と言っている訳です。この称名を否定してしまったら如来が誓った意味はないのです。称名を否定するような領解の仕方というのは本願を正しく理解した事ではないのです。ちゃんと有るものは有る通りに理解しなければいけないのです。有るものを無いとして理解するような理解の仕方は正しくないのです。

 そうしますと「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」という信心だけで、そして「乃至十念」と言われてるのはただ一念というだけで解釈しますと「乃至十念」と誓った意味が無くなってしまう。如来がせっかくお誓いになっている事を無視するような理解の仕方は間違っているというのです。それは大事なものが落ちている筈なのです、どこかで欠落してる。つまり一念義というのは「乃至十念」というものを誓われた如来の意が欠落している、そういう理解の仕方は本願の正しい受け取り方ではないという訳です。

 逆に「乃至十念」の「十念」と言われたものを限り無く増強いたしまして、そして臨終まで念仏を相続しなければ救われないぞと言った時には、こちらも「必ず浄土に生まれることができると欲うて念仏しなさい」と言われてるのに往生出きるか出来ないか分からない状態で念仏してるという理解の仕方をしたら、この「至心信楽欲生我国」と誓った事の意味が欠落してしまう事になります。つまり念仏に重点を置いて信心を否定するのも、信心に重点を置いて念仏を無視してしまうのもどちらも本願の正しい受け方ではない

親鸞聖人はそれを「行と信とは御ちかひを申すなり」(*) 信と行というのは如来の誓いなのだ、そのどちらか一方を無視するような理解の仕方は如来の本願を誤った理解の仕方をしている事になると言われるのです。ですからこの二つをチャンと正確に理解できるような受け取り方をしなければいけませんと言っている訳です。

 これを親鸞聖人は『教行証文類』の「行文類」と「信文類」に「大行大信」として何れも如来の本願において誓い賜わった信であり、如来より賜わった行であるという風に見て行かれるのです。その行は一声一声の念仏が絶対の徳を持っている、無限の尊厳さをもって私達の念仏生活というものを意味付け、念仏生活というものを充実させて行くものが「乃至十念」という事なのだ。浄土を目指す者として一番相応(ふさわ)しい生き方はどういう生き方か、その生き方をここでは「乃至十念せよ」と定めたのです。何をどう目指すのか、浄土を目指すのだ、浄土に生まれると浄土を目指して生きるのだ。そしてその浄土は生まれられるかどうか分からないというようなあやふやなもんではない。必ず浄土に生まれる事ができると浄土を目指して生きて行く。その浄土を目指して生きて行く生き方はどうかといったら念仏なのだ、お念仏という生き方をするのだ、これが浄土を目指して生きる念仏者の正確な生き方なのです。

 そこでどのように思い取り、どのように生きるべきかという事を如来は定めていらっしゃるのです。だからどちらか一方を否定するという事は、を肯定してを否定する者は、その人生が念仏者の人生でなくなってしまう、念仏者として相応(ふさわ)しくないというのです[1]。そこで詮ずるところは念仏往生と「ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。」とおっしゃる訳です。これが一念・多念というものに対する親鸞聖人の正しい理解なのです。

 お念仏というのは一声一声如来の全存在が南無阿弥陀仏となって私の人生を支えている状態がお念仏なのだ。だから如来のみ名が南無阿弥陀仏という仏のみ名が私の人生の一コマ一コマを支えて行く。だから念仏を見失った人生というのは極めて危険だ。念仏を忘れ仏を忘れた人生は迷いしかない。仏を忘れた人間は迷う、限り無く迷って行く。その迷っている者を呼び覚まして行くのが如来のみ名です。その如来のみ名によって呼び覚まされる。その如来のみ名は念仏となって私に届いている。だから念仏する事において私達は絶えず自己を超えて行く。自分の妄念を超え、自分の妄想から開放されて行く。そして心開かれる。そういう行と信というものが一つに融け合って、行と信が一つになって私の人生を支えている。これが本願の行信というものだ。如来が行を与え信を与えるのはその意味なのだという事です。そういう事を親鸞聖人はおっしゃる訳です。これはこれから後にも何回も出てまいります。この次の所にもその事が出てまいりますし、もう少し後の所に出てまいりますので、そこへ行ってもう一遍詳しい事は言います。

 それは第二十六通で七八五頁あたりにもこれ出てまいります。以前に信の一念行の一念という行信一念の事を言われたお手紙の所でも少し申し上げました。七八五頁でもう一遍言ってあるのです。これは「尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。」(*) これは多念義の人に対して一念義系の人から批判した、その一念義系の人が念仏往生と信ずる者は自力だから本当のお浄土へ生まれる事はできないのだと言ったのです。それに対して親鸞聖人はこの一念義系の人の考え方を否定している訳です。それは間違いだ。
「おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。」(*) という風に言われているのです。

 この辺りが一念多念の論争をチャンと踏まえて、そしてどちらにも偏らないように正しく本願を領解するようにと言われているのです。少し難しいですけれども、しかし非常に重要な事柄です。

 法然聖人が亡くなられて暫く経ちまして後鳥羽上皇という人が、ある時に聖覚法印を御所に呼びまして「この頃世間では一念多念の争いという事があるという事を聞いてるが、これはどういう事なのだ。またどういう風に理解したら良いのだ」と後鳥羽上皇が聞いていらっしゃるのです。その時に聖覚法印は「信は一念に生まると説いて、行を多念に励む。これが正しい一念多念の領解でございます。」と答えたのです。「信は一念に生まると説いて、行を多念に励む」と言うのです。これはどういう事かというと、例えばたった一声のお念仏も必ず私を往生させて下さる用(はたら)きを持っている。それだけの徳を持っていると信じて、そのお念仏を生涯相続して行く。これが念仏往生の正しい領解の仕方でございますといったのです[2]。だから「信は一念に生まる」と説くのです。そういう風に信ずる。一念に往生は定まると信じて、その念仏を生涯相続して行く、これが正しい念仏往生の領解でございますと答えたのです。

 「信を一念に生まると説いて、行を多念にはげむべし」と法然聖人から聞いておりますと言っているのです。これは本当に法然聖人がおっしゃっているのです。これは親鸞聖人が収録された『西方指南抄』(4-216)という法然聖人の法語の中にやはり同じ事が言われているのです。「信は一念に生まると説いて、行を多念にはげむ」とこうおっしゃってる。そして同じ事が『和語燈録』(4-633)にも述べてあります。そこにはもう一言付け加えてあるのです。「信は一念に生まると説いて、行を多念にはげむ」これが正しい念仏の領解の仕方なのだ。この「信は一念に生まると説いて」というのは、たった一念たった一声のお念仏も、それで往生の為に不足はない。如来の徳の全てが南無阿弥陀仏となって与えられたのだから、その南無阿弥陀仏を頂く一つで往生が決定する、それが信心なのだ、信心はそのように領解するのだ、そして頂いた念仏を一生涯相続して行く、これが正しい本願の領解であると言うのです。

 ところが信の側を強く言えば邪見におちいり、行の方を強く勧むれば自力になる詮なきものだと法然聖人は嘆かれたというのです[3]。信心の側を強く勧めたら邪見におちいる、この信心一つで往生ができる後は念仏を称えなくても間違いないと思って念仏相続を忘れてしまう、そして勝手な邪見に振り回されてしまう。だから信の側を強く勧めると邪見におちいる。行の側を強く勧めると自力になる。どうも偏ったものの考え方をする人間には応対しきれないといわれて法然聖人は嘆いておられる法語がございます。しかしこれは今の私達にとっても大変重要な警告ですから間違いないようにこれは頂かないといけないでしょう。

第十八願
行信
行信不離

  1. 行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである、といふ。
  2. 『古今著聞集』巻二に、
    後鳥羽院、聖覚法院参上したりけるに「近来専修の輩、一念多念とて、わけて爭(あらそ)ふなるは、いづれか正(ただし)とすべき」と、御尋ありければ「行をば多念にとり、信をば一念にとるべきなり」とぞ申侍りける。 (『古今著聞集』)
    とある。
  3. 『法然上人行状画図』には、
    又云。一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、信が行をさまたぐるなり。信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
    又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
    又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念ごとに往生の業となるなり。(『法然上人行状画図』
    とあり、『和語灯録』には
    「つよく信ずるかたをすすむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが(すべ)なき事にて(はべ)る也」とある。(「往生大要抄」)