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信疑得失

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しんぎとくしつ 信疑得失

 阿弥陀仏の仏智を信じるものは大利を得、疑うものは大利を失うということ。『大経』(註 76) には、仏智を信じるものと疑うものとはともに浄土へ往生できるが、その生まれ方に化生胎生という相違があると説いている。これを『大経』流通分では

「それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。このゆゑに、まさにあきらかに諸仏無上の智慧を信ずべし」(註 79)、
「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(註 81)

等と説かれている。親鸞はこの得失を阿弥陀仏の本願に対する信疑の別として、本願を疑うものを自己の力をたのんで善行や念仏をはげむ第十九・二十願の行者とし、本願を信じるものを第十八願の真実信心の行者と捉え、本願を信じることを勧め、疑うことを誡めている。『浄土和讃』には

「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」
「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」 (註 555)

の2首が対比して出され、『正像末和讃』には

「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり」(註 614)

等とある。→信疑決判報化二土。(浄土真宗辞典)

信疑決判
報化二土