広讃・略讃
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広讃 こうさん、略讃 りゃくさん
『唯信鈔文意』には、
第十七願文、
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
を釈し、
- 「第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられんと誓ひたまへる」(註 703)
と「ほめられん」といふ咨嗟と「となへられん」といふ称我名を挙げておられた。この「ほめられん」は広讃であり。「となへられん」は略讃であろう。[2]
この「略讃」とは天親菩薩の『浄土論』の、
- いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。(浄土論 P.33)
の「如実修行相応 (如実に修行して相応)」の口業の なんまんだぶであった。 →称
- ↑ 『一念多念証文』には
- 「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。
- ↑ 第十七願の「咨嗟称我名」は、「咨嗟」して我が名を称(たた)えるといふ意味で、本来は名を称(とな)えるといふ「称名」の意味はない。しかし御開山は「ほめられん、となへられん」とされ、「称我名」に第十八願の乃至十念は称名(なんまんだぶ)であることを諸仏の教である第十七願に拠って立証されたのであろう。これは法然聖人の第十八願の「乃至十念」は称名であるといふ念声是一に対する明恵高弁の
- この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。