久遠実成
提供: WikiArc
御開山の晩年(80~)の仏身・仏土観は『論註』の
- 「そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。」(梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~)
といわれるように、 あらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超越したものであった。それを『一念多念証文』で、
と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身としての報身である阿弥陀仏だとされておられる。
この二種法身説以前には『法華経』による久遠実成説を「浄土和讃」で、
とされたり『諸経讃』に、
と、「久遠実成」の阿弥陀如来として、かって学んだ天台法華の塵点久遠劫という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられた。