入不二の法門
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にゅうふにのほうもん
煩悩即菩提
相対的な対立をすべて超越した、絶対の境地を示す教え。『
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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にゅうふにのほうもん 入不二の法門
すべての存在の本性があらゆる差別の相を超えた絶対の一であるという生死即涅槃、煩悩即菩提をさとる法門のこと。『論註』には
- 「無礙は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なり〔生死即是涅槃〕と知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無礙の相なり」(行巻引文・註 192)
とある。(浄土真宗辞典)
- 〔…〕内は林遊が追記。
入不二法門 にゅうふに-ほうもん
相対的な差別を超えた絶対平等の境地に入ること、またその境地。維摩経巻中の入不二法門品には、文殊師利などの三二菩薩と維摩詰居士との入不二法門についての問答を説いて、諸菩薩は生滅とか善悪などの相対する原理についてそれを超えた絶対の理を見出したのが入不二法門であるとし、文殊師利は表現することも識(し)ることもできないそのこと(無言無説無示無識) が入不二法門であるとしたのに対して、維摩詰は沈黙によって入不二法門を表した(黙不二)とする。
この三つの意味については諸説があり、僧肇は維摩の境地を最高のものとし(註維摩詰経巻八)、慧遠は遣相門(相対の否定によって高次な絶対を表す諸菩薩の立場) と融相門(相対そのことが絶対であるとする文殊および維摩の立場) に分けて論じている(維摩経義記巻三末)。(仏教学辞典)
曇鸞大師は『論註』で、
とされておられた。
テンプレート:新作領解文
外部リンク
「つばめ堂通信」