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生死即涅槃

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しょうじ-そくねはん

生死がそのまま涅槃であるという意。生死とは迷いの果、涅槃とはさとりの果を表す。仏智、仏のさとりからみれば、かけ離れた世界である生死と涅槃であっても、その体性は一つであるということ。 仏のさとりに至れば、あらゆる差別の相を超えた絶対の境地にいたることから、このようにいう。なお、大乗仏教では煩悩即菩提と対にして用いられる場合が多い。
浄土真宗において生死即涅槃は、阿弥陀仏の浄土で得る証果であるが、信心を獲得する一念に当来の往生成仏が定まることから、信心にそなわる法徳としても説かれる。 これは獲信のところで難思議往生が確約されるということであって、現生において証果を部分的に得るということではない。 「正信偈」に、

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。(行巻 P.206)

「高僧和讃」に、

往相の回向ととくことは
 弥陀の方便ときいたり
 悲願の信行えしむれば
 生死すなはち涅槃なり (高僧 P.584)

等とある。(浄土真宗辞典)

法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、真言・達磨(禅宗)・天台・花厳等を挙げて論じ、

天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。(和語灯録#P--417)

と、「煩悩即菩提 生死即涅槃」は天台宗の観心(摩訶止観)の教えだとされていた。

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:生死即涅槃

しょうじそくねはん/生死即涅槃

覚った仏智をもって見ると、迷える衆生生死輪廻世界が、そのまま不生不滅の清浄涅槃の境地であるという意。「煩悩即菩提」と対句で用いられることが多い。曇鸞は『往生論註』下に「一道とは一無礙道なり。無礙とは謂く生死即ち是れ涅槃なりと知るなり。是の如き等の入不二の法門は無礙の相なり」(浄全一・二五五上)と述べ、法然は『往生大要抄』に「天台宗には〈煩悩即菩提生死即涅槃〉と観じて、観心にて仏に成ると習うなり」(聖典四・三〇〇/浄全九・四八一下)と述べている。


【参照項目】➡煩悩即菩提


【執筆者:佐藤堅正】