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十劫安心

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2024年1月23日 (火) 17:42時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

じっこう-あんじん

 安心とは、心を一つ処に安置して不動なこと。信心の異名。

じっこうひじ 十劫秘事

 十劫安心などともいう。十劫の昔に阿弥陀仏が成仏した時、すでに衆生の往生も成就されており、これを忘れないのが信心であるとする理解。真宗における異安心の一。『御文章』1帖目第13通 (註 1102)、3帖目第8通(註 1148)、2帖目第11通 (註 1126)などに批判がある。(浄土真宗辞典)

十劫とは、『大経』に、

阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。
仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫()たまへり。」(大経 P.28)

とあり、阿弥陀仏が十劫のむかし正覚成就し、衆生往生の因を定められたことをいう。
『浄土和讃』には、
(3)

弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫をへたまへり
 法身の光輪きはもなく
 世の盲冥をてらすなり (p.557)

とある。

十劫安心とは、この十劫の昔に阿弥陀仏は正覚を成就されたのであるから、その時に本願は成就し衆生往生決定しており、それを忘れないのが信心(安心)であるといふ理解を指す。
西山派の影響が強いとされる『安心決定鈔』に、

念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふなり。 (安心決定 P.1392)

や、

「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。(安心決定 P.1384)

とある「十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心」の意を誤解して浄土真宗の信心と混同することを、「十劫安心」といい正当な浄土真宗のご信心ではないとする。浄土真宗の信心の特長である真仮の「廃立」が欠けているからである。
蓮如さんは『安心決定鈔』を、

一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。(一代記 P.1313)

と、「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまでいわれていた。それで『安心決定鈔』の中心思想である「機法一体」の法語によるご教化も『安心決定鈔』の意を門徒に判りやすく説くためであったのであろう[1]。しかし、決して阿弥陀仏の十劫正覚と衆生の往生決定を同値する「十劫正覚往生一体」の論理による信心とはいわれなかった。かえって、

「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚を成りたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文章 P.1102)

や、

このゆゑにその信心の相違したる詞(ことば)にいはく、「それ、弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。(御文章 P.1148)

などといわれて、十劫の昔、阿弥陀仏が正覚を成就した時に衆生の往生は決定したという「十劫正覚往生一体説」をとらず、仏願の生起が本末として動的にただ今の私にはたらいている本願招喚の勅命信順するご信心を強調されたのである。
稲城選恵和上は、

十劫安心というのも、現在でも、すでにたすかっていることの自覚が信心であるという領解を時々耳にすることがあるが、この考え方と共通するもので、十劫の昔に阿弥陀仏が正覚成就したとき、その時、すでにたすかっているというのである。ただ今までそれを知らなかっただけである。このような解釈は一遍上人の系統にあるようである。 一遍上人の法語にある「信不信を論ぜず」という言葉を誤解すると、全く十劫安心となる。
例えば、ペニシリンの注射をすると、肺炎が治るといわれるが、これを知っているからといってそのまま肺炎の病気が治るということはない。それゆえ、蓮師は、「されば十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき信心のいはれをよくしらずば極楽には往生すべからざるなり」(御文章 P.1126)といわれるのである。

といわれていた。
御開山の示された信とは、過去の獲信の記憶を回想するのではなく、また未来を妄想することでもなく、現在ただいま届いている「本願招喚の勅命」の仏勅を聞信することであったからである。浄土真宗の先達は「聞即信」ということを示して下さったのも、観念的な心に思い描く信心ではなく、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞える名体不二の名号法による済度をいうのであった。第十八願の「乃至十念。若不生者 不取正覚(乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」である。


  • 十劫安心という思想から西山派の帰命の解釈である、我が命は根源的な阿弥陀の命であったことに気づくのが帰命とする帰還命根説になるのであろう。
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  1. 浄土宗西山派の派祖である善恵房証空は、衆生(機)と仏の正覚(法)が不離・不二であることを機法一体という用語であらわしておられた。『西山善慧上人御法語』。覚如上人や存覚上人は、西山義の安養寺、阿日房彰空や慈光寺勝縁から西山義や一念義の幸西の凡頓一乗義を学んだことがあるといわれ、覚如上人の『願願鈔』に「信心歓喜すれば機法一体になりて、能照所照ふたつなるににたれどもまったく不二なるべし」とあり、存覚上人の六要鈔にも「既に仏願に帰すれば、機法一体・能所不二にして、自ずから不行而行の理あり。故に不捨という。機の策励にあらず。これ法の徳なり」と機法一体の用語例がある。