操作

行門・観門・弘願

提供: WikiArc

2022年10月14日 (金) 05:02時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

ぎょうもん・かんもん・ぐがん

 証空は『観無量寿経』の理解において、行門・観門・弘願により浄土教信仰に帰入する経緯について統括[1]している。この立場は主に証空の『観経疏自筆御鈔』にみられる。
ここで行門とは自力修行門であり諸経に説かれる。
観門とは観経十六観門であり『観無量寿経』正宗分に説かれる。
弘願とは広弘誓願であり『無量寿経』に説かれる本願である。
 いわゆる行門は聖道門であり、観門と弘願は浄土門である。証空は行門を捨てて観門より弘願に帰していくことを勧めている。凡夫は諸経に説かれる如説修行の自力を実修することでは救済され難いのである。ただ行門は観門の機を整える調機誘因(調機誘引)としてあり、釈尊の教説のなかで「浄土三部経」以外の全てがこれに当たる。
 証空は釈尊が『観無量寿経』に説かれる依正二報を観想する観門により阿弥陀仏の弘願に帰して往生できると説く。
 観門は阿弥陀仏の弘願を衆生に知らせるために説かれた教説であり、念仏によって衆生を極楽浄土に往生させることを目的としている。実は『観無量寿経』は弘願を説き詮(あらわ)す経典である。
そして、弘願は南無阿弥陀仏の六字の名号に帰着する。しかし釈尊は弘願の意を体して観門『観無量寿経』を説いたのであるから、阿弥陀仏の側から言えば、弘願によって観門が施設されたこといなる。
証空はこの行門、観門、弘願の展開について、行門から観門、観門から弘願へという展開と、弘願のための観門、観門のための行門という展開との二つがいつも念頭に置かれている。どちらかというと、最初の展開は衆生の機の側に、後の展開は阿弥陀仏の側に、それぞれ重点がある内容になる。証空の念仏は弘願の念仏となる。

{以下略}(證空辞典)

開会

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:行門・観門・弘願門

ぎょうもん・かんもん・ぐがんもん/行門・観門・弘願門

証空善導の著書を注釈する際に用いた名目(術語)。特に『観門要義鈔』『観経疏大意』等の初期の著書に用いている。行門とは自力修行の法門のことである。釈尊一代に説く大小乗の諸経は自力修行によって仏果を期する教えである。しかし、煩悩具足凡夫はこの行門を成就することはできない。行門はただ凡夫に対して観門へと機を調え導く異方便としてのみ意義をもつ。観門とは『観経』に説かれる定散二善十六観の法門のことである。いわゆる観門自力修行の法門ではなく、弘願を能詮する教えであり、観門弘願を領納する手立てである。さらには観門弘願不二一体の開会の関係ともなる。弘願とは阿弥陀仏本願力のことであり、凡夫はこの弘願により救済されるのである。この名目の関係は弘願により観門が開かれ、さらに行門が開設されるという教法の施設の立場がある。また、行門を離れて観門より弘願門に帰するという機の入信の立場がある。証空はこの両面から阿弥陀仏による凡夫救済の原理を明かしている。


【参考】上田良準・大橋俊雄『浄土仏教の思想』一一(講談社、一九九二)


【執筆者:中西随功】

  1. 統括(とうかつ)。ばらばらに分かれているものを一つにまとめること。